セメント王に至るまでの経歴
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「諸井恒平」の記事における「セメント王に至るまでの経歴」の解説
後に11代目当主となる諸井恒平は、東諸井家10代目当主である諸井泉衛と佐久との間に次男として生まれた。事業家としての才覚は若い頃からあり、1878年(明治11年)にわずか16歳で本庄生糸改所頭取に推されている。続いて1886年(明治19年)には児玉郡外二郡蚕糸組合の副頭取に就任し、同年には24歳で本庄郵便局長になった。 しかし、恒平の才能が世に出るきっかけとなったのは、1887年(明治20年)に日本煉瓦製造株式会社に勤務した時からであった。この会社は深谷町にあった。そして、彼を推薦したのは、他ならぬ親類であり先輩でもあった渋沢栄一(青淵)その人である。恒平は支配人から取締役を経て、1907年(明治40年)には専務取締役にまで昇進した。その間、1899年(明治32年)に日本工業協会理事を務め、1906年(明治39年)には東京毛織株式会社専務取締役に就任する。さらに、1910年(明治43年)に秩父鉄道株式会社取締役となった。この他にも大正、昭和を通して次々と要職に就く。 最後に恒平の名を不動にしたのは、秩父鉄道の役員となった明治末年に武甲山の石灰岩に注目し、セメント製造事業の開拓を手掛けたことである。セメントの需要拡大を見込み、1923年(大正12年)に秩父セメント会社を設立、1925年(大正14年)には秩父鉄道株式会社の社長に就任する。1937年(昭和12年)には取締役会長となった。 こうして一大事業を完成させた恒平は、1941年(昭和16年)2月13日、東京・本郷の自宅で永眠する。79歳であった。墓所は埼玉県の安養院である。
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