スールーの後継紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 15:00 UTC 版)
「ラハダトゥ対立 (2013年)」の記事における「スールーの後継紛争」の解説
詳細は「:en:Sulu succession dispute」を参照 事件の背景にあるもう1つの要因は、スールー王国の未解決な地位である。ラハダトゥのフィリピン人集団はジャマルル・キラム3世をスールー王国スルタンの代表だと主張している。 しかしながら、スルタンとしての彼の地位は他にも数名の主張者によって争われている。 1936年に第32代スルタンのジャマルル・キラム2世が死去した後、後継者で弟のムワリル・ワシト2世も即位直前で死去し、以後しばらくは第二次世界大戦と時期が重なったこともあり、複数の家系から複数のスルタンがたてられていた。WWII終了後の1950年にはイスマイル・キラム1世が第33代スルタンとなったが、彼の死後は弟のブンジュンガン・キラムと息子のムハクッタ・キラムがそれぞれスルタンを名乗り、この2人の家系がそれぞれスルタンを継承するようになった。2013年にサバ州に派遣されたフィリピン人らが支持していたジャマルル・キラム3世はブンジュンガン・キラムの息子であり、彼の次のスルタンだった。また、この2つの家系以外でもスルタンを名乗る人物は存在し、例として2011年にマレーシア国内で第33代スルタンに即位したと発表したモハマド・アクジャン、第31代スルタンの孫でマレーシア政府からスルタンの資産継承人として認められているロディノドがいる。 このように事件当時スールー王国のスルタンを名乗っていた人物はジャマルル・キラム3世だけではなく、またそもそも「スールー王国のスルタン」自体、フィリピン社会においてほとんど影響力を有していなかった。京都大学の山本は、2012年10月にモロ・イスラム解放戦線がフィリピン政府と和平の枠組み合意を結び自治政府組織に向けて交渉を開始したこと、その直前の2012年9月頃に「スールー王国のスルタン」を名乗る人物が増えたことから、スールー王国の末裔たちはミンダナオ島の将来に関わる和平や自治政府組織に参加できず苛立ちや危機感を覚え、自分たちも当事者として加わることを望んでいたのだと述べている。
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