シメオン1世の時代
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「ブルガリア・東ローマ戦争」の記事における「シメオン1世の時代」の解説
ブルガリアはボリス1世の時代に、東ローマの圧力によって正教を受け入れた。ボリス1世の子のシメオン1世は当初、修道士として育てられた。修道士の教育を受けるためにコンスタンティノープルに留学していたこともあるが、兄が異教復活を図って反乱を起こし廃嫡されたため、ボリス1世の跡を次いで894年にブルガリア王に即位した。当初は東ローマと平穏な関係を保っていたシメオンだったが、東ローマ側がブルガリアとの交易所をコンスタンティノープルから突如テッサロニキに変えて、税を引き上げてしまった。この措置に怒ったシメオンはただちに軍事行動を起こし、マケドニアに進入して東ローマ軍を撃破した。東ローマ帝国はブルガリアの後方にいたマジャール人と同盟を結んでブルガリアを攻撃した。するとシメオンはマジャール人の東方にいたペチェネグ人と同盟を結び、マジャール人を挟撃して敗走させ、さらに896年にブルガロフュゴンで東ローマ軍に勝利し、東ローマに貢納金を支払う義務を負わせた。 912年に即位したアレクサンドロスは人気取りのため、ブルガリアへの貢納金支払いを停止した。このためシメオンは再び東ローマ帝国に攻め込み、コンスタンティノープルを包囲した。そして急死した皇帝アレクサンドロスに代わって交渉した総主教ニコラオスによって「皇帝」と認められ、コンスタンティノープルに入場して即位式を果たし、913年に「ローマ人とブルガリア人の皇帝」と称した。しかし、総主教ニコラオスをクーデターで追い落とした皇后ゾエ・カルボノプシナはシメオンの戴冠を取り消し、ブルガリアに敵対的な姿勢を見せた。917年に東ローマ帝国はブルガリアに攻め込んだが、シメオンはアケロオスの戦いでこれを打ち破った。さらに翌年にはギリシャ北部へ進入している。しかし、シメオンはコンスタンティノープルの大城壁を越えることはできず、東ローマの同盟国となったセルビア人やクロアチア人との戦いに追われ続け、927年に病死した。シメオン死後のブルガリアは急速に衰退し、969年にニケフォロス2世フォカスが呼び寄せたキエフ・ルーシの軍勢によって滅ぼされた。
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