シメオン1世の時代とは? わかりやすく解説

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シメオン1世の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 09:35 UTC 版)

ブルガリア・東ローマ戦争」の記事における「シメオン1世の時代」の解説

ブルガリアボリス1世時代に、東ローマ圧力によって正教受け入れたボリス1世の子シメオン1世当初修道士として育てられた。修道士教育を受けるためにコンスタンティノープル留学していたこともあるが、兄が異教復活図って反乱起こし廃嫡されたため、ボリス1世の跡を次いで894年ブルガリア王即位した当初東ローマ平穏な関係を保っていたシメオンだったが、東ローマ側がブルガリアとの交易所コンスタンティノープルから突如テッサロニキ変えて、税を引き上げてしまった。この措置怒ったシメオンはただちに軍事行動起こしマケドニア進入して東ローマ軍撃破した東ローマ帝国ブルガリア後方にいたマジャール人同盟結んでブルガリア攻撃した。するとシメオンマジャール人東方にいたペチェネグ人同盟を結び、マジャール人挟撃して敗走させ、さらに896年にブルガロフュゴンで東ローマ軍勝利し東ローマ貢納金を支払義務を負わせた。 912年即位したアレクサンドロス人気取りのため、ブルガリアへの貢納支払い停止したこのためシメオンは再び東ローマ帝国攻め込みコンスタンティノープル包囲した。そして急死した皇帝アレクサンドロスに代わって交渉した総主教ニコラオスによって「皇帝」と認められコンスタンティノープル入場し即位式果たし913年に「ローマ人ブルガリア人皇帝」と称した。しかし、総主教ニコラオスクーデター追い落とした皇后ゾエ・カルボノプシナはシメオン戴冠取り消しブルガリア敵対的な姿勢見せた917年東ローマ帝国ブルガリア攻め込んだが、シメオンアケロオスの戦いでこれを打ち破った。さらに翌年にはギリシャ北部進入している。しかし、シメオンコンスタンティノープル大城壁を越えることはできず、東ローマ同盟国となったセルビア人クロアチア人との戦い追われ続け927年病死した。シメオン死後のブルガリア急速に衰退し969年ニケフォロス2世フォカス呼び寄せたキエフ・ルーシ軍勢によって滅ぼされた。

※この「シメオン1世の時代」の解説は、「ブルガリア・東ローマ戦争」の解説の一部です。
「シメオン1世の時代」を含む「ブルガリア・東ローマ戦争」の記事については、「ブルガリア・東ローマ戦争」の概要を参照ください。

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