ザンビア代表
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ザンビア代表はアフリカの強豪チームの一つで、1988年のソウルオリンピックではグループリーグでイタリア代表やグアテマラ代表を破りグループリーグ首位で準々決勝進出を果たした。準々決勝では西ドイツに敗れたものの、この大会での活躍はザンビア代表の存在を世界中にアピールしアルジェリアやモロッコやカメルーンに次ぐアフリカの新勢力として認知された。その中でもイタリア戦でのハットトリックを含め6得点を挙げたエースストライカーのカルシャ・ブワルヤは同年にアフリカ年間最優秀選手賞を受賞し、翌1989年にオランダのPSVアイントホーフェンへ移籍した。 一方、チルバ政権による経済政策の転換により国営鉱山会社からの資金援助が受けられなくなり、慢性的に資金難の状態にあったザンビアサッカー協会の下では選手の待遇も劣化し、遠征費費用の捻出が困難な場合はザンビア空軍に依頼し老朽化した軍用機を借受けて遠征するほかなかった。 1992年から始まった1994 FIFAワールドカップ・アフリカ予選では1次予選H組で1位となり最終予選進出を果たし、1993年4月から始まる最終予選ではモロッコ代表とセネガル代表と同じグループとなった。3チームでホームアンドアウェイ方式のリーグ戦が行われ、1位で勝ち抜いたチームが翌年にアメリカ合衆国で開催されるワールドカップへ出場することになっていた。
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ザンビア代表
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この事故により5月2日に予定されていた試合は8月7日に延期された。ザンビア代表は18人の選手を失ったものの、被害を免れたブワルヤを中心に国内外でプレーする選手を招集して新たに代表チームを再編しワールドカップ予選へ挑んだ。この時期からスタジアムでは弾丸を意味する「チポロポロ」という応援歌が歌われるようになり、代表チームの愛称も従来の「KKイレブン」から「チポロポロ」と呼ばれるようになった。 予選は3試合を終えた時点でザンビアが首位に立ち(2勝1引分け勝ち点5、得点6失点1得失点差+5)、2位のモロッコ代表(2勝1敗勝ち点4、得点5失点3得失点差+2)との最終戦での直接対決で勝つか引き分けるかでワールドカップ出場が決まる条件だった。しかし10月10日に敵地のカサブランカで行われた試合は0-1で敗れ、勝ち点1の差でワールドカップ出場を逃した。 翌1994年にチュニジアで行われたアフリカネイションズカップ1994では決勝進出を果たし、ナイジェリア代表と接戦を演じたが1-2で敗れ準優勝となった。1996年に南アフリカ共和国で行われたアフリカネイションズカップ1996では3位入賞を果たすと、エースのブワルヤはこの大会で5得点を挙げる活躍により得点王となった。しかし、その後はアフリカネイションズカップで上位進出することはなく、ワールドカップ予選においても予選敗退が続くなど、低迷期に入った。
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