サントスFCでの引退
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所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた。ペレはこのような状況もあってかつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった。1970年代には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高等教育を受けた人物と交流するうちに学問への意欲が芽生えるようになり、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたジュリオ・マゼイ(英語版)の指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学入試資格に必要な中等教育課程を修了。大学入学試験にも合格し体育学を専攻した。 1973年にはペプシコーラとの間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ。この契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた。また「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した。 1974年10月2日に行われたポンチ・プレッタ戦が、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となった。試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた。 この後、ペレは思い出の地であるメキシコを振り出しに世界キャンペーンに旅立ち、11月19日には訪日し1週間滞在。静岡県清水市、東京都と広島市で「サッカー教室」を開催した。
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