サンタンヌ・ペ・バ奇襲
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「セントジョン川方面作戦」の記事における「サンタンヌ・ペ・バ奇襲」の解説
モンクトンはサンタンヌ・ペ・バに長く滞在することはなかった、冬が間近に迫っていたからである。氷結した川に行く手を阻まれるのを恐れて、モージェヴィユに向かい、フレデリック砦に戻ってから、ハリファックスに30世帯のアカディア人を捕虜として連行した。ハリファクス砦の駐屯隊長には、少佐のロバート・モリスが就任した。 約3箇月後の1759年2月、モンクトンはかんじきを履かせたレンジャーたちを分遣し、サンタンヌポワンに向かわせた。2月18日、サンタンヌ・ペ・バに到着したヘイゼンと約15人のレンジャーは、集落のものを略奪してから火をつけ、147の家屋や建物を焼いた。2つの集会所(マスハウス)や、すべての納屋や家畜小屋も焼かれ、大規模な倉庫にも火がつけられて、蓄えてあった干し草、小麦、エンドウ豆、大麦などが燃やされ、212頭の馬と5頭の牛、多くの豚などが殺された。また教会も焼かれた。(この教会はフレデリクトンの旧政庁のすぐ西の位置にあった)。 また、レンジャーたちもインディアン同様に、6人のアカディア人捕虜の頭皮を剥いだ。アカディア人生存者のジョゼフ・ゴダン=ベルフォンテーヌの手記には、ゴダン=ベルフォンテーヌ自身がレンジャーたちに拘束され、目の前で家族が惨殺されたと書かれている。ゴダン=ベルフォンテーヌの証言には、他にも裏付けとなる一次出典がある。フランス軍が、インディアン兵を雇ってイギリス兵の頭皮を剥がせる一方で、イギリス軍はアメリカン・レンジャーズに「インディアンの」頭皮を剥がせた。この当時、英仏双方の連隊は辺境での戦いに熟練しておらず、一方インディアンやレンジャーは熟練していた。イギリス軍士官のコーンウォリスやアマーストは、レンジャーやミクマク族の戦術に危機感を抱いていた。この当時、アカディア人による頭皮狩りは沿海諸州だけに見られた。ニューイングランド兵も、一時期沿海諸州でインディアンの頭皮を剥いだが、イギリス軍は、ロワイヤル島のフランス軍がしていたような、ヨーロッパ人の子孫の頭皮を剥ぐことを認めなくなっていた。 1759年5月18日、何人かの兵が、フレデリック砦の外へ釣りに出かけた際、インディアン兵の攻撃を受け、兵たちは城塞の中へと逃げ込んだが、1人が逃げ遅れて連れ去られた。6月15日にも、他の兵たちが、川釣りに出かけたところをアカディア人とインディアンに待ち伏せされた。双方が競り合っている間、砦の範囲内のスループから砲撃が行われ、一方で砦からも砲撃があった。兵たちの1人が殺されて頭皮を剥がれ、もう一人が重傷を負った。他の兵たちがアカディア人たちを追跡したが、見つからなかった。 フレデリック砦の指揮官は、アカディアの集落が壊滅したことを確信できず、1759年の7月から9月の間に、少なくとも3つの分遣隊が、セントジョン川の上流のサンタンヌに送られた。兵たちは道すがらアカディア人を何人か捕まえ、家を焼き、作物を台無しにし、そして家畜を惨殺した。9月には90人以上の部隊が派遣された。オロモクト川に沿った現在のフレンチ・レイクで、分遣隊はアカディア人の激しい抵抗に遭い、レンジャーが7人これで戦死した。
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