コンクァーリング・ベアー酋長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/04 13:06 UTC 版)
「グラッタンの虐殺」の記事における「コンクァーリング・ベアー酋長」の解説
マト・ワユヒ(コンクァーリング・ベアー=征服する熊)酋長は、シチャング族の非常に温厚で思慮深い、敬愛を集めた酋長だった。彼は白人達が「スー族の大指導者」として一目置き、条約交渉の要としたがっていた人物で、当時オールド・スモークの野営地の近くで、ミネコンジュー族やオグララ族と一緒に暮らしていた。 グラッタンやフレミング中尉は、コンクァーリング・ベアー酋長を「スー族を率いる最高指導者」だと勘違いしていた。フレミングの執拗な要求に、酋長は「自分はシチャング族の酋長(調停者)であり、ハイ・フォアヘッドはミネコンジュー族の戦士だから、自分には彼を連行するような権限がないのだ」と説明した。同じスー族であっても、シチャング族とミネコンジュー族は個別の共同体であり、ミネコンジュー族の不始末はミネコンジュー族で処理するのが道理なのである。また酋長はそもそも「指導者」でも「司令官」でもないのである。 スー族を始め、インディアンの社会は合議制であり、酋長(チーフ)はそのなかで「調停役」を果たす存在だった。酋長には首長のような、他者を従属させたり命令する権限は無い。「すべては大いなる神秘のもとにあり、神羅万象は平等であり繋がっている」と考えるインディアンの社会には、「首長」や「部族長」は存在しないのである。しかし、白人にはこれがどうしても理解できなかった。「インディアンのチーフは部族長であり、部族の代表である」という、クリストファー・コロンブス以来のこの勘違いは、ここでもこの温厚な酋長に対して向けられた。 グラッタンの理不尽な要求に対し、コンクァーリング・ベアー酋長は自分の私財を代理賠償するという分別ある申し出をし、「調停者」、「世話役」として申し分のない調停を提案したのである。コンクァーリング・ベアー酋長の死はスー族を大きな悲しみで包んだ。長老たちは「我々の平和な村に、白人の兵士を入れたことからこんなことになった」と悔やんだが、コンクァーリング・ベアー酋長は今わの際でも白人を怨まず、「無鉄砲な若者たちが誤ったことをした。私は死ぬ。私の身内、テトン・スーすべてはオールド・マン・アフレイド・オブ・ヒズ・ホーシズ酋長にあずける」と言い残した。 彼の遺体は、伝統に習って平原の樹上に葬られた。スー族の長老たちは、砦を襲撃して追い打ちをかけることはせず、それぞれが平原に再び散開することを選んだ。歴史作家のラリー・マクマートリーはこう述べている。 「彼らが望めば、恐らくララミー砦を滅ぼすことも出来ただろうに。」当時「カーリー(くせ毛)」という名だったクレイジー・ホース少年はこの事件に大きなショックを受け、一人で山にこもり、以後の人生を決定づける啓示を得ている。 この事件をきっかけに、白人とスー・インディアンの領土を巡る戦いは拡大の一途をたどり、ララミー砦条約の和平案は瓦解した。その根本原因は、白人のインディアン文化への無理解にあった。
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