コルタツィス兄弟の反乱とは? わかりやすく解説

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コルタツィス兄弟の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 17:31 UTC 版)

ヴェネツィア領クレタ」の記事における「コルタツィス兄弟の反乱」の解説

1261年ニカイア帝国によってコンスタンティノープル再征服達成されビザンツ帝国パレオロゴス朝)が復活した後、皇帝ミカエル8世クレタ島奪回励んだ1262年にスコルディリス家、メリッシノス家、そしてコルタツィス家(Chortatzes)の下でミュロポタモスを拠点反乱勃発したミカエル8世はこの反乱即座に反応し、ステンゴスという人物軍船1隻と兵を預けてクレタ島派遣し反乱おこしていたギリシア人貴族のゲオルギオス・コルタツィス(Georgios Chortatzes)およびミカエル・スコルディリス・プサロメリンゴス(Michael Skordiles Psaromelingos)と接触持たせた。この反乱4年荒れ狂ったが、その展望明るくなかったミカエル8世いかなる実質的な支援出来なかったのみならずクレタ島貴族たちは反乱渦中でもヴェネツィア当局との連絡維持し最後にヴェネツィアビザンツ帝国のうち優勢な方に味方すべきだという日和見的な姿勢応じた。ステンゴスはギリシア人貴族アレクシオス・カレルギス(英語版)によってヴェネツィア当局にその存在密告されて行方不明となった最終的に1265年6月18日付の新し条約によって反乱終結しクレタ島貴族たちの特権再確認され、反乱軍指導者たちに新たに2つ封地与えることが定められた。しかしその翌年、コルタツィス家の兄弟であるゲオルギオステオドロス、そしてアレクシオス・カレルギスを含むクレタ島貴族たちが新たな反乱企図しているという噂が広まったクレタ公ジョヴァンニ・ヴェレニオ(英語版)の大胆な[訳語疑問点]介入とカレルギスの優柔不断とによってこれらの計画失敗終わったミカエル8世1268年英語版)と1277年英語版)に条約締結しクレタ島ヴェネツィア支配することを承認した。この時の条約クレタ島ギリシア人たちがクレタ島自由に居住できること、またクレタ島立ち去ることができることヴェネツィア捕虜としたギリシア人解放することも定められた。 しかしながら1272年または1273年、ゲオルギオス・コルタツィスとテオドロス・コルタツィスは東クレタラシティ高原英語版)を拠点更なる反乱起こした1276年反乱軍メッサラ平野英語版)での野戦クレタ公とその補佐官(councillor)に勝利し、この「カンディアヴェネツィア植民地」は散った反乱軍カンディア包囲したが、勝利を目前にしてクレタ貴族たちは内部対立始め崩壊し始めた。プサロメリンゴス家(Psaromelingoi)の一族1人戦利品分配巡ってコルタツィス家の一族の人物殺害した後、両者不和となった同時にアレクシオス・カレルギスは公然とヴェネツィア人協力したヴェネツィアから大規模な援軍到着すると、1278年にこの反乱最終的に鎮圧され、コルタツィス兄弟数多くいたその支持者たちはビザンツ帝国へと逃げ各々の地でビザンツ帝国仕えた

※この「コルタツィス兄弟の反乱」の解説は、「ヴェネツィア領クレタ」の解説の一部です。
「コルタツィス兄弟の反乱」を含む「ヴェネツィア領クレタ」の記事については、「ヴェネツィア領クレタ」の概要を参照ください。

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