コルタツィス兄弟の反乱
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「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「コルタツィス兄弟の反乱」の解説
1261年にニカイア帝国によってコンスタンティノープルの再征服が達成され、ビザンツ帝国(パレオロゴス朝)が復活した後、皇帝ミカエル8世はクレタ島の奪回に励んだ。1262年にスコルディリス家、メリッシノス家、そしてコルタツィス家(Chortatzes)の下でミュロポタモスを拠点に反乱が勃発した。ミカエル8世はこの反乱に即座に反応し、ステンゴスという人物に軍船1隻と兵を預けてクレタ島に派遣し、反乱をおこしていたギリシア人貴族のゲオルギオス・コルタツィス(Georgios Chortatzes)およびミカエル・スコルディリス・プサロメリンゴス(Michael Skordiles Psaromelingos)と接触を持たせた。この反乱は4年間荒れ狂ったが、その展望は明るくなかった。ミカエル8世はいかなる実質的な支援も出来なかったのみならず、クレタ島の貴族たちは反乱の渦中でもヴェネツィア当局との連絡も維持し、最後にはヴェネツィアとビザンツ帝国のうち優勢な方に味方すべきだという日和見的な姿勢で応じた。ステンゴスはギリシア人貴族アレクシオス・カレルギス(英語版)によってヴェネツィア当局にその存在を密告されて行方不明となった。最終的に1265年6月18日付の新しい条約によって反乱は終結し、クレタ島の貴族たちの特権が再確認され、反乱軍の指導者たちに新たに2つの封地を与えることが定められた。しかしその翌年、コルタツィス家の兄弟であるゲオルギオスとテオドロス、そしてアレクシオス・カレルギスを含むクレタ島の貴族たちが新たな反乱を企図しているという噂が広まった。クレタ公ジョヴァンニ・ヴェレニオ(英語版)の大胆な[訳語疑問点]介入とカレルギスの優柔不断とによってこれらの計画は失敗に終わった。ミカエル8世は1268年(英語版)と1277年(英語版)に条約を締結し、クレタ島をヴェネツィアが支配することを承認した。この時の条約でクレタ島のギリシア人たちがクレタ島に自由に居住できること、またクレタ島を立ち去ることができること、ヴェネツィアが捕虜としたギリシア人を解放することも定められた。 しかしながら、1272年または1273年、ゲオルギオス・コルタツィスとテオドロス・コルタツィスは東クレタでラシティ高原(英語版)を拠点に更なる反乱を起こした。1276年、反乱軍はメッサラ平野(英語版)での野戦でクレタ公とその補佐官(councillor)に勝利し、この「カンディアのヴェネツィア植民地の華」は散った。反乱軍はカンディアを包囲したが、勝利を目前にしてクレタ貴族たちは内部対立を始め、崩壊し始めた。プサロメリンゴス家(Psaromelingoi)の一族の1人が戦利品の分配を巡ってコルタツィス家の一族の人物を殺害した後、両者は不和となった。同時にアレクシオス・カレルギスは公然とヴェネツィア人と協力した。ヴェネツィアから大規模な援軍が到着すると、1278年にこの反乱は最終的に鎮圧され、コルタツィス兄弟と数多くいたその支持者たちはビザンツ帝国へと逃げ、各々の地でビザンツ帝国に仕えた。
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