ケネドゥグーの抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:34 UTC 版)
「ケネドゥグー王国」の記事における「ケネドゥグーの抵抗」の解説
19世紀最後の四半世紀に、フランス植民地帝国とサモリ・トゥーレの二つの脅威が南、西、東の交易相手を併呑し始めたことで、全ては終わりを告げた。ファアマ・ティエバは避けられない運命を予期したか、1877年にはケネドゥグー王国の首都を母の故郷であるシカソに移転した。そこでティエバは戦略的に重要な丘の上にマメロンと呼ばれる新たな宮殿を建築した。 皮肉なことに、小国であるケネドゥグー王国は西アフリカにおけるフランスの野望に対抗する最後の主要国の一つとなった。西アフリカの諸大国はドミノ倒しのようにサモリ・トゥーレのワスルー帝国(Wassoulou Empire)かフランスに陥落させられていった。1887年4月、サモリ・トゥーレは12,000人の軍隊でシカソを攻撃したものの、シカソ市を陥落させることはできなかった。その後の1887年から1888年にかけて、フランス軍はシカソを包囲したものの、これもケネドゥグーに敗れた。1890年、防衛のため、ティエバは都市の周囲に「タタ」と呼ばれる要塞を建築するように命じた。タタの一部は現在でもシカソの主要な観光名所の一つとなっている。 1893年1月1日、ティエバが亡くなると兄弟のバベンバ・トラオレが王位についた。バベンバはさらに5年にわたってフランス軍を抑え込んだ。1897年、フランスはケネドゥグー王国の北隣、トゥクロール帝国の首都で赤セグーを征服した。この戦勝によってフランスはシカソに対しての野心を新たなものにして、前回のシカソでの屈辱を晴らすべく、再びシカソ攻略の準備をした。
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