クレア・パーカーの登場
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「アレクサンドル・アレクセイエフ」の記事における「クレア・パーカーの登場」の解説
1931年、25歳のクレア・パーカーは芸術を学ぶため、アメリカからフランスのパリに来ていた。(アレクセイエフ当時30歳、娘スヴェトラーナ7歳。) クレアパーカーは、マサチューセッツ州ボストンで1906年8月31日に生まれた。家族は裕福な著名な一家で、女性であったクレア・パーカーに対して教育差別をしなかったため、彼女はマサチューセッツ工科大学を卒業することが出来た。彼女には好きな場所へ旅行したり、欲しいものを読み、好きな人と付き合ったりする自由があった。 (彼女は10代の頃に父親とウイスキーで酔っぱらったことがあると話した。)彼女は20代の時、他の男性のアメリカ人アーティスト、作家、同世代の知識人と同じように、パリに向かった。 クレア・パーカー、アレクセイエフに会う パリに着いたクレアパーカーは何かを創造したいという衝動に駆られたが、具体的に何をすべきかわからなかった。ちょうどその時、パリに住んでいたメキシコ人の弁護士の親友が、彼女にアレクセイエフの本を渡した。そのイラストに彼女は感銘を受け、アレクセイエフに会って勉強したいという手紙を出版社に書いた。そして、アレクセイエフが住んでいたヴォールペニル(Vaux-le-Pénil)に訪れた。 「私は白いあごひげを生やした怖い老人に会うと思っていた...。でも現れたのは背が高く、茶色で、ハンサムで、上品な30歳の男性だった。初めて会った夜、私たちは、セーヌ河岸で手をつないで帰った。そして、2回目の勉強会は存在しなかった。」 と彼女は笑いながら回想している。 Claire Parker, An Appreciation1996年ジャンアルベルト・ベンダッツィ執筆 より ジャンアルベルト・ベンダッツィは、世界で最も稀有なアニメーション技法、ピンスクリーンアニメーションを開発したアレクセイエフとクレア・パーカー夫妻の親友であった。アレクセイエフのことを"アロシャ Alosha"というファミリーネームに基づくニックネームで呼び、1970年代頃(夫婦ら晩年の11年前頃)から交流。夫婦ら研究の紹介に大きな力を注ぎ、2001年には「アレクセイエフ: マスターへの道程」を出版。数々の貴重な証言を残している。
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