ギトーの裁判と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 04:20 UTC 版)
「ガーフィールド大統領暗殺事件」の記事における「ギトーの裁判と処刑」の解説
ギトーは、常にその弁護団を悪く言うこと、長々と暗誦する叙事詩で証言を形作ること、および無作為に選んだ傍聴人からメモを渡されることで法的な助言をせがむことを含め、裁判の間のその奇抜な振る舞いにより、メディアお気に入りのようなものになった。彼は、ガーフィールドの殺人が神の意思であり、自分は神の意思を実行する道具に過ぎないので、自分は無罪と主張した。裁判所で『ジョン・ブラウンの体』(南北戦争のときの北軍行進曲)を歌った。「ニューヨーク・ヘラルド」紙に対して自叙伝を口述し、30歳以下のキリスト教徒淑女に対する個人的な宣伝で締めくくった。2回も暗殺されそうになった後でも、アメリカ大衆の怒りや憎しみに対してありがたいくらい気付かなかった。一つ的を射ていたのは、ガーフィールドがギトー自身ではなく、過誤医療によって殺されたと主張したことだった(「医師たちがガーフィールドを殺した。私は撃っただけだ」)。裁判の間からその処刑のときまで、ギトーはワシントンD.C.の南東隅にあるセントエリザベス病院に居住した。 ギトーの裁判は精神異常が検討されたことでは、アメリカ合衆国でも最初の目立ったものの一つになった。ギトーは、狙撃したときは法的に狂気であったが、現実には医学的狂気ではないと主張し、それがギトーと弁護団の間の亀裂の大きな原因の一つとなり、また陪審員がギトーは単に責任を逃れようとしていると見なした理由でもあった。 つまるところ、ギトーは釈放が近づいていると考えた後は講演旅行を始め、1884年の大統領選挙には自ら出馬する計画を積極的に立てており、それと同時に裁判を取り巻く報道合戦を楽しみ続けた。陪審員が彼の神の啓示について納得できず、殺人罪で有罪としたときは落胆した。1882年1月25日に有罪が確定した。ギトーは控訴したが、それも棄却され、1882年6月30日にワシントンD.C.で絞首刑になった。絞首台の上でギトーは自分で書いた「私は神の国に行く」と題した詩を朗誦した。ギトーは当初その詩を歌うときにオーケストラの伴奏を要求したが、これは拒絶された。
※この「ギトーの裁判と処刑」の解説は、「ガーフィールド大統領暗殺事件」の解説の一部です。
「ギトーの裁判と処刑」を含む「ガーフィールド大統領暗殺事件」の記事については、「ガーフィールド大統領暗殺事件」の概要を参照ください。
- ギトーの裁判と処刑のページへのリンク