キリスト教布教とシノロジーの成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 08:28 UTC 版)
「中国学」の記事における「キリスト教布教とシノロジーの成立」の解説
16世紀、カトリックの宣教師は中国においてキリスト教の布教をすすめていた。明代末期の中国で初めて本格的な布教活動を行ったマテオ・リッチを初めとするイエズス会士たちは、ヨーロッパ科学の紹介を通じて著名な知識人・政治家らと交流して彼らを改宗させ、中国文化・社会に関する知識を蓄積した。そして本国の修道会への報告という形で行った中国事情の紹介が、一般にはシノロジーの成立としてみなされている(このためリッチは最初の中国学者とされている)。初期の調査活動の多くは、キリスト教の布教(ひいては西洋文化)と中国文化をいかに適合していくかという問題に関心が集中していた。西欧における最初の中国学の書は1585年に刊行されたスペイン人修道士メンドーサ(彼自身は訪中経験はない)による『シナ大王国記』であり、この書はヨーロッパの各国語に訳され広く流布した(モンテーニュ『随想録』にも引用されている)。 中国からヨーロッパに帰国した宣教師たちは西欧におけるシノロジーの制度化の中心となった。この際とくに重視されたのが布教に不可欠な語学の修得である。1626年にはフランス人修道士トリゴーが『西儒耳目資』を杭州で刊行し漢字のアルファベット転写を試みた。1732年ナポリ王国出身の宣教師マッテオ・リパが、ナポリに欧州大陸最初の中国学の学校(「中国学院」(今日のナポリ東洋大学の核))を創設した。マッテオ・リパは、1711年から1723年にかけて康熙帝の満州宮廷で画家や銅版彫刻師として働いていた。1732年に中国から4人の若い中国人キリスト者を連れてナポリに帰国し、全員を中国語の教師とし、クレメンス12世の裁可を得て宣教師に中国語を教える学校を作り、中国でのキリスト教布教を支えた。 19世紀にはイアキンフ・ビチュリンやパルラディ・カファロフといった正教会の宣教師も、布教とともに中国研究を行っていた。パルラディ・カファロフの業績として元朝秘史の発見と出版が挙げられる。
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