カシオペアを結成してプロデビュー・1970年代後半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 16:56 UTC 版)
「野呂一生」の記事における「カシオペアを結成してプロデビュー・1970年代後半」の解説
野呂は高校卒業後、明星大学に進学。すぐにその大学の軽音楽同好会のメンバーで構成されたセミプロのロックバンドのファンシーハウスに加入する。しかし、講義に通うことはほとんどなくバンド活動やギターの練習に明け暮れ、大学は一年で中退し、以後は将来に向けての音楽活動の修行に費やすことにした。この間、ファンシーハウスの次に中山ラビのバックバンドにも参加するが、どちらも短期で離脱して、自作曲による櫻井とのバンド活動に時間を費やした。ボーカルが在籍する時期もあったが、野呂と櫻井以外のメンバーは定着しなかった。音楽性は次第にハードロックやファンクをベースとし、ジャズのエッセンスを加えたインスト音楽となり、これでバンドの方向性が定まった。 バンドの名称をカシオペアと改めた後、櫻井の提案で1976年に日本楽器製造(現:ヤマハ)東京支店主催のアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest '76」に出場。決勝大会まで進出し、野呂がベストギタリスト賞を受賞したことで広くカシオペアと野呂一生の名が知られるようになった。翌1977年、バンドに向谷実を加えて同コンテスト (「EastWest '77」) に再出場。二年連続のベストギタリスト賞、加えて優秀グループ賞を受賞した。カシオペアは「EastWest '77」出場メンバーでのプロデビューを目指すこととなり、都内近郊でライブ活動開始。一方、野呂個人では、「EastWest '77」の審査員としてカシオペアを絶賛したベーシストの鳴瀬喜博に声をかけられ、鳴瀬のリーダー・セッションライブや鳴瀬が請け負ったさまざまなレコーディングに、カシオペアのデビューに先駆けてプロとして参加した。 1979年5月にカシオペアはアルバム『CASIOPEA』でレコードデビューする。野呂の優れた作・編曲の能力とともに、ライブで完全再現させる演奏力で高い評価を得ていく。特に、自分の担当楽器であるギター中心の音楽にせず、一つの曲の中でバンド全員をバランス良く目立たせながらアンサンブルをも重視する野呂の編曲手法は、その後の日本におけるフュージョンのスタイルに多大な影響を与えた。
※この「カシオペアを結成してプロデビュー・1970年代後半」の解説は、「野呂一生」の解説の一部です。
「カシオペアを結成してプロデビュー・1970年代後半」を含む「野呂一生」の記事については、「野呂一生」の概要を参照ください。
- カシオペアを結成してプロデビュー1970年代後半のページへのリンク