オートモ号の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)
1923年9月に、空冷4気筒943㏄・OHV(オーバーヘッドバルブ)のエンジンを搭載した「オートモ号」の試作が始まり、翌年に試作車が完成。車名は、豊川家の先祖の姓「大伴(おおとも)」から取られている(詳細は#車名の由来を参照)。この試作車と改良型アレス号を使って、試験走行が繰り返し行われた。この試験走行は入念なもので、巣鴨の白楊社工場からの自走で、西は大阪(後述)、北は仙台(松島)まで走り、関東近郊でも箱根、碓氷峠、伊香保、塩原、草津、日光・中禅寺湖、那須などの丘陵を選んで走行が重ねられた。そうした遠征のほか、東京市内の坂は全て試走しており、市内で最も勾配がきつく路面も良くなかった江戸見坂(当時の斜度20%)では、5人乗りの状態でローギアで登れるか確認が行われたりもしている。 1924年(大正13年)8月末、オートモ号の試作車が東京から大阪までの40時間ノンストップのテスト走行に成功。 1924年11月、白楊社は「オートモ」号を発売。発売にあたり、東京・永楽町(現在の大手町)の白楊社販売部で発表会(展示会)が11月15日から17日にかけて3日間にわたって催され、当時の首相である加藤高明をはじめとした5,000人が来場した。(#オートモ号の発表会もあわせて参照のこと) オートモ号の販売にあたって白楊社は広告にも力を入れ、カタログに女優の水谷八重子(初代)や岡村文子を起用するという、当時としては斬新な手法が試みられた。これは日本の自動車広告で女優(キャンペーンガール)を起用した最初の例と考えられている。 発売時の価格は1,780円(発売翌月に1,580円に改定)で、これは輸入車の価格を基準に決めたものであり、採算が取れる価格ではなかった。当時は乗用車の個人所有は一般的ではなく、主にタクシーなどの営業用車両として使用された(詳細は#購入者を参照)。
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