オーステルベークへの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/03 08:16 UTC 版)
「ジョン・バスキーフィールド」の記事における「オーステルベークへの撤退」の解説
攻撃に失敗した4個大隊の残余は混乱に陥ったままオーステルベークまで撤退した。オーステルベークでは現地の守備に当たっていた第1空挺軽砲兵連隊の連隊長シェリフ・トンプソン中佐(Sheriff Thompson)の元で守備隊に組み込まれ、やがて混乱も落ち着いていった。4個大隊の残余はロバート・カイン(英語版)少佐の指揮下に置かれ、75mm榴弾砲陣地から半マイル前方で防衛線を形成した。この守備部隊はトンプソン中佐の名から「トンプソン・フォース」(Thompson Force)と呼ばれていたが、彼は別方面の指揮を取るために翌日オーステルベークを離れており、後任者としてリチャード・ロンズデール(英語版)少佐が送られている。 9月20日の夜明け直後、守備隊に対するドイツ軍の攻撃が始まった。バスキーフィールドは6ポンド対戦車砲2門を以ってしてオーステルベークとアルンヘムを結ぶベネーデンドルプス通り(Benedendorpsweg)の南端にあたるT字路を防衛せよとの命令を受けた。彼自身が指揮する砲はベネーデンドルプス通りに北側から繋がるアカシアラーン(Acacialaan)という道路に配置され、もう1門はその右手(東側)の道に配置された。 戦闘の初期段階、バスキーフィールドの砲はアカシアラーンへと前進してきたドイツ軍の戦車2両と自走砲1両を撃破している。しかし付近の建物に立てこもっていた第11大隊所属の空挺隊員らに対する敵歩兵の攻撃が始まり、バスキーフィールド達がこれに対処している間に敵の走行車両が100ヤードの距離まで接近していた。バスキーフィールドはすぐに発砲を命じたが、この際の反撃により部下の砲兵らが死傷し、彼自身も重症を負った。しかし、彼は撤退を拒否し、単身で装填、照準、発砲を行いドイツ軍装甲部隊と戦った。彼は砲が破壊されるまで次々と発砲し、その後に東側の砲まで這いずっていった。この時点で東側の砲に付いていた砲兵らも死傷し、砲撃を行えない状況にあった。彼はここでさらに別の自走砲を破壊したが、その直後に別の戦車からの反撃を受けて戦死した。 ロンズデール指揮下の部隊は同日中に後退し、9月21日にはトンプソンが負傷した為、部隊の名前が正式に「ロンズデール・フォース」(Lonsdale Force)と改められた。ロンズデール・フォースは9月25日夜のベルリン作戦で撤退するまで、オーステルベーク周辺の確保に努めた。
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