オーステンデ・ウィーン・トリエステ急行
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「オーステンデ・ウィーン急行」の記事における「オーステンデ・ウィーン・トリエステ急行」の解説
1895年12月3日から、オーステンデ・ウィーン急行は週に一度のみ、ウィーンから当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったアドリア海の港町トリエステまで、オーストリア南部鉄道経由で延長された。これをオーステンデ・ウィーン・トリエステ急行と称した。トリエステはオーストリア・ロイド(ドイツ語版)社の地中海航路の拠点であり、オーステンデ・ウィーン・トリエステ急行はエジプト・アレクサンドリアへの船と連絡していたほか、不定期にインド、中国、日本への船とも接続していた。また1897年からは客車1両が不定期にフィウーメ(現クロアチア領リエカ)へ直通した。 しかしイギリスと地中海を結ぶ経路は、フランスやイタリアの港を利用するものが主流となっており、オーステンデ・ウィーン・トリエステ急行のウィーン以南での乗客は列車全体で数人ということも珍しくなかった。このため1900年5月1日にはオーステンデ・ウィーン・トリエステ急行の運転は中止され、寝台車1両のみが通常の急行列車に連結されてトリエステまで直通するのみとなった。1909年にはタウエルントンネル(ドイツ語版)が開通し、オーストリア西部やドイツからトリエステへの短絡路が形成されたため、オーステンデ・ウィーン急行からトリエステへの直通は廃止された。
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