ウクライナと中央での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 08:02 UTC 版)
「ヤン・ベルジン (外交官)」の記事における「ウクライナと中央での活動」の解説
1927年6月からはウクライナ社会主義ソビエト共和国人民委員会議(ロシア語版)附属連邦外務人民委員部 (ru) 代表となったが、健康上の問題および本人の希望によって、1929年9月には連邦中央執行委外交文書公表委副議長および『ソビエト大百科事典』副編集長へ異動となった。1927年11月29日から1930年6月5日まではウクライナ共産党中央委員 (uk)、同月15日から1934年1月18日までは中央委員候補でもあった。1932年6月には全ロシア中央執行委および連邦中央執行委附属中央アーカイブ部 (ru) 部長へ就任し、指導者としてベルジンは、それまでの中央アーカイブが「政治的に無能で矛盾した者たち」によって牛耳られていたと非難した。ベルジンの監督下で、中央アーカイブには「警備強化」・合理化と情報公開の制限が行われた。 ベルジンは党史と国際労働運動史に関する著作や、その他政治・文化・芸術など幅広い分野での評論をラトビア語で物し、中央アーカイブ部機関誌『クラスヌィー・アルヒーフ』(ru) の編集者を務めもした。しかし、1937年9月7日には病気を理由として中央アーカイブ監督を解雇された。12月24日には「中央アーカイブ部スパイ事件」に関与した容疑で逮捕され、翌1938年8月29日(または25日)にモスクワで銃殺された(別の情報源では、1941年3月12日に獄死した)。その後、ベルジンは1956年に名誉回復(ロシア語版)がなされた。
※この「ウクライナと中央での活動」の解説は、「ヤン・ベルジン (外交官)」の解説の一部です。
「ウクライナと中央での活動」を含む「ヤン・ベルジン (外交官)」の記事については、「ヤン・ベルジン (外交官)」の概要を参照ください。
- ウクライナと中央での活動のページへのリンク