ウクライナでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 13:50 UTC 版)
「ミハイル・ボンダレンコ」の記事における「ウクライナでの活動」の解説
しかしボンダレンコ自身はウクライナ人として祖国で働くことを望んでおり、同年にモスクワからハリコフでの勤務を打診された際には、これを了承した。そして12月4日から翌1937年7月まで、ボンダレンコはウクライナ共産党ハリコフ市委第二書記を務めた(実際には1936年10月から着任)。1937年7月から翌8月まではハリコフ州委第二書記に就いたが、大粛清の空席を埋める形で同月16日から翌9月までヴィーンニツァ州委第一書記を代行した。 8月30日に開催されたウクライナ共産党中央委 (uk) 総会において、ボンダレンコは他の出席者に同調し、人民委員会議議長パナス・リュプチェンコについて「反革命的民族主義組織への関与は完全に立証されており、疑いの余地は一切ない」と非難した。そして8月30日にリュプチェンコが自殺すると、党中央委幹部会によって同日ボンダレンコは後任の人民委員会議議長、そして党政治局員 (uk) に就けられた。 政府長としてボンダレンコは、「キエフ市のレーニン博物館 (ru) 建設について」(9月3日)、「1937年の綿の収穫について」(4日)、「馬の繁殖状況を改善するための措置について」(8日)、「ウクライナ果物トラストのウクライナ食品産業人民委員部への移管について」(21日)、「ウクライナの司法機関の施設および設備の提供について」(同日)、「地場産業人民委員部ハリコフ市木工所トラストの軽工業人民委員部への移管について」(25日)などの法令に署名し、また十月革命20周年記念式典へ向けた予算配分を指導した。その一方で、キエフのピオネール宮殿 (uk) に冠せられていたリュプチェンコの名を「人民の敵(ロシア語版)・反革命・民族主義者・スパイ」として削除させる決定にも関与した。
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