イーゼンブルク伯の宮廷所在地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 04:11 UTC 版)
「オッフェンバッハ・アム・マイン」の記事における「イーゼンブルク伯の宮廷所在地」の解説
ヴェルナーが死亡したことによりファルケンシュタイン家の男系家系は断絶し、その財産は他の貴族家のものとなった。ファルケンシュタイン家の遺領のうちオッフェンバッハの所領はイーゼンブルク伯ルートヴィヒが相続した。イーゼンブルク=ビルシュタイン伯ラインハルトの治世に、オッフェンバッハはその宮廷所在地となった。このためにイーゼンブルク城が建設された。1559年、オッフェンバッハに宗教改革がなされた。三十年戦争の際、1631年にバイエルン軍に占領されたオッフェンバッハは、スウェーデン軍によって解放された。イーゼンブルク城でスウェーデン王グスタフ・アドルフによって帝国都市フランクフルトの敗北が宣言された。 イーゼンブルク=オッフェンバッハ伯ヨハン・フィリップは、1698年にユグノー派の難民を受け容れた。難民たちは街の西側に固有の集落を建設した。これによりオッフェンバッハはミンダーシュタット(小都市)に成長した。この西部集落は、18世紀にはシュタット(都市)と呼ばれるまでに発展した。ユグノー教徒らはタバコ製造業をオッフェンバッハに導入し、これが18世紀の成長市場に合致したのであった。 フランクフルトには経済的自由権がなかったため、多くの企業家が当時の国境を越えてイーゼンブルク伯によって経済的に有利な特権を保証されていたオッフェンバッハに移住した。 1739年にルター派教会(市教会)の定礎がなされ、新しい市場用の広場としてアリス広場(この名称は1879年につけられたものだが)が設けられた。この広場は時にパラーデ広場(閲兵広場)とも呼ばれた。それは、ここでイーゼンブルク軍兵士の演習が行われたためである。 詩人ゲーテは、恋人のリリー・シェーネマンが住んでいたため、1775年にこの街を定期的に訪れている。この頃、皮革加工業が始まり、最初の工業および産業が根付き始めた。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやニコロ・パガニーニも興隆著しいこの工業都市を訪れている。前者は出版者ヨハン・アンドレーに楽譜を出版してもらうため、後者はピラッツィが製造した楽器の弦を購入するためであった。1786年には女性作家ゾフィー・フォン・ラ・ロッシュの一家がドーム通り23番地に居を定めた。1792年、オーストリア軍がオッフェンバッハ近郊でマイン川を渡り、ヘヒスト付近でフランス軍に勝利した。1794年、イーゼンブルク侯ヴォルフガング・エルンストによって奴隷が解放された。1798年にはオッフェンバッハで200年以上ぶりにカトリックの礼拝が行われた。カール・ルートヴィヒ・モーリッツ侯はユダヤ人税を1803年に廃止した。1812年にこの街で最後の死刑が執行された。処刑台はヘルマン通りとシェーファー通りの高台にあった。
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