インド 第2期プネー
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86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻る。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになる。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した。 1987年、Oshoはエイズを危険な病気とみなし、アシュラム来訪者の全てにエイズの陰性証明書が求められるようになった 1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する。 1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル・ファウンデーション改めオショー・インターナショナル・ファウンデーション(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った。 1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる。1月19日彼の脈拍が不規則になる。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える。彼は午後五時に肉体を離れる。 1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた。
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