イコノロジーへの批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 18:07 UTC 版)
「イコノロジー」の記事における「イコノロジーへの批判」の解説
イコノロジーの方法論は20世紀の美術史学を方向づけた一方で、発表当初からさまざまな批判にさらされてきた。ヴァールブルク研究所の伝統を継いだゴンブリッチは、パノフスキーの想定している「絵画の意味の三つの層」のすべてが、論理的には破綻しうると指摘している。 たとえば公共の場に掲げられた壁画作品のような場合、どこからどこまでを「意味の領域」と考えればよいのか(第1段階への批判)。 言語による描写は絵画による描写ほど、細部を正確に表現することができない。したがってどのような文献(テクスト)も、美術家の想像力に広い余地を残す。つまり作品と文献の慣習的な結びつきは一つには決まらない(第2段階への批判)。 そもそも「意味」という言葉は、言葉ではなく絵画作品に適用されると、きわめてつかみどころがない。誰にとっての意味なのか。作者とは誰なのか、注文主か、美術家か。また制作される過程で「意図した意味」は変わることがないのか(第3段階への批判)。 しかしゴンブリッチはこのようなイコノロジー的手法の限界を認識しながらも、一次史料の厳密な踏査によって依然として美術史研究に適用しうると述べていた。 より厳しい批判が、近年フランスの美術史家ジョルジュ・ディディ=ユベルマン( fr:Georges Didi-Huberman) によって行われている。 ディディ=ユベルマンは主著の一つ『イメージの前で』(1990) において、まさにパノフスキーによる《メランコリアI》解釈を例にとって、パノフスキー流の見方が完全に成り立つ一方、この版画が制作された当時に広まっていた、座り込み頬杖をついた姿勢で表現される「メランコリー的キリストの図像」に範をとったとする解釈も同様に成り立つと指摘する。 これは図像というものが解釈の複数性を免れないにもかかわらず、パノフスキーの「イコノロジー」に従うと、その可能性を切り詰めて一つの解釈だけを選び取ってしまう、という批判だった。またディディ=ユベルマンは、パノフスキーの考える「意味」という概念そのものについても疑念を示している。何をもって「意味」と考えるべきかはまったく自明ではなく、芸術作品には意味作用しか存在しないかのような前提も自明ではない、という批判である。 日本の美術史家・岡田温司も、同様の文脈で、パノフスキーが絵のなかのイメージを何らかの思想内容を運ぶ媒体でしかないかのように扱っている、と批判している。 このほかにも、イコノロジーは作品の意味だけに研究対象を限定することで様式や個人的表現としての芸術を無視する「イコノロジー的縮小」に過ぎないとか、逆にすべてが何かを象徴すると考える「過剰解釈」を生んだ、などとも批判された。 近年ではイコノロジーに代わる方法論として、「イコニーク」(イムダール)や「美術史的解釈学」(ベッチュマン)などが提案されているが、決定打はなく、現在でもイコノロジーは美術史学にとって様式論と並ぶ主要な方法論でありつづけている。
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