イギリス海軍、マーカムとスコット
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「ディスカバリー遠征」の記事における「イギリス海軍、マーカムとスコット」の解説
イギリス海軍本部副大臣ジョン・バロウの影響下、ナポレオン戦争後の平和な時代では極地探検がイギリス海軍の活動領域になった。1845年にフランクリン遠征隊が消息を絶ったあとは海軍の興味が失せ、その後は多くの実りのない調査が続いた。ジョージ・ネアズが率いた1874年から1876年の北極探検では船が永久流氷に阻まれるという問題点に遭遇し、ネアズ自身が北極は「到達不可能」と宣言した後、海軍本部は、それ以上の極地探索は危険であり、費用も掛かり、実りのないものであると判断した。 しかし、王立地理学会の秘書官(後の会長)クレメンツ・マーカムは、1851年のフランクリン救出遠征に加わった海軍の軍人だった。マーカムはネアズの遠征の一部にも加わっており、海軍の歴史的な役割を再開する確固とした提唱者になった。さらにこの野望を推進する機会が1893年11月に訪れた。1870年代のチャレンジャー号探検航海で生物学者として南極海域を訪れていた著名な生物学者のジョン・マレーが王立地理学会に働きかけた。マレーは「南極探検の再開」と題する論文を提出し、イギリスの科学のために大々的な遠征を要求した。これにはマーカムから、また国の主要科学団体である王立協会の二者から強い支持があった。2つの団体の合同委員会が設立され、遠征隊が採用すべき形態を決めることになった。マーカムが描いていたのはロスやフランクリンの形に倣う本格的な海軍のものであり、合同委員会の一部からは反対されたが、その執念によって遠征隊は大部分がその願いに適う形に作られることになった。マーカムの従兄弟の伝記作者が後に、遠征隊は「かれの脳の創作物、継続したエネルギーの産物」と書いていた。 後に極地探検の責任者に適した者となる将来を嘱望される若い海軍士官に、マーカムが気付いたのはかなり前のことだった。1887年に士官候補生ロバート・ファルコン・スコットを見たのが最初であり、スコットはセントキッツでHMSローバーに乗艦しており、マーカムのことを覚えていた。その13年後にHMSマジェスティックの魚雷大尉になっていたスコットは、その経歴を進める道を求めており、ロンドンでクレメンツ・マーカムと会った機会を生かして、遠征隊長に応募することになった。スコットはマーカムの心の中に長い間残っており、何を措いても最初に選んだ者だったが、その他にも好ましい候補者は視界内に入ってきたものの、年を取りすぎているか、あるいは使えなくなっていた。マーカムの断固とした裏付けがあったので、スコットは海軍中佐に昇格した時点から間もない1900年5月25日に隊長に指名された。
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