イギリスの財政難と講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/18 10:27 UTC 版)
「第二次マラーター戦争」の記事における「イギリスの財政難と講和」の解説
しかし、追い詰められていたのはむしろイギリスの方だった。 当初、イギリス側は短期決戦を想定して戦闘を行っていたが、ヤシュワント・ラーオの奮戦により、戦争は想定の範囲を超えて長期化していた。イギリス東インド会社の負債は長期にわたる戦争により増大し、1800年の段階では1400万ポンドだった負債は、1805年には倍近くになっていた。そのうえ、ヨーロッパで台頭するフランスのナポレオン・ボナパルトという脅威(ナポレオン戦争)に直面せねばらず、イギリスの財源は底を尽きかけていた。 すでに、リチャード・ウェルズリーはイギリス本国に召還させられていた。彼はムガル帝国の皇帝を保護する名目で領土の拡大にいそしんだが、ホールカル家との戦いが長引くなかで本国と戦争に関する方針で対立し、事実上更迭という形で解任されたのである。 そのうえ、イギリスの統治業務拡大も問題だった。シンディア家とボーンスレー家からは北インドおよび中央インドの割譲領土を手に入れたが、イギリスは戦争中ということもあり、これらに上手く統治制度の導入ができていなかった。また、新しい領土を獲得したことにより、その防衛にも手を回さなければならなかったのである。 さらには、領土を割譲して降ったシンディア家とボーンスレー家らがホールカル家へと味方しようとしてしたことも、イギリスにとって大きな脅威だった。ヤシュワント・ラーオの必死の抵抗が、逆にイギリスを追い詰めたのであった。彼は一時的ながらも事実上、イギリスのインド植民地化への野望を打ち砕いた。 とはいえ、これらの事情から両者とも戦闘の続行は不可能であり、イギリスは使者を送ってヤシュワント・ラーオに講和を要請した。こうして、12月24日に彼はパンジャーブのラージガートで講和条約ラージガート条約に調印し、長期にわたる第二次マラーター戦争は終結した。
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