アンボンの戦いとは? わかりやすく解説

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アンボンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:58 UTC 版)

蘭印作戦」の記事における「アンボンの戦い」の解説

アンボンオランダ1599年基地建設して以来モルッカ諸島中心地であり、天然良港中心として要塞航空基地構築されていた。連合軍守備兵力は3,000名(オーストラリア軍1,200名、蘭印軍400名、現地軍1,400名)であったアンボン攻略任じられたのは第38師団歩兵228連隊基幹とする東方支隊支隊長:第38歩兵団長伊東武夫少将兵力5,300名)と呉第1特別陸戦隊(呉一特、兵力750名)であった。第38師団香港攻略戦完遂した後、1月12日香港出発し蘭印作戦参加していた。 1月24日ハワイ空襲から帰投した第2航空戦隊空母蒼龍飛龍艦載機アンボン空襲した。同地には連合軍の艦艇航空機認められなかった。31日未明東方支隊主力アンボン東側に、呉一特と第10中隊北側上陸した。第10中隊中隊長香港攻略戦名を馳せた若林東一中尉であった東方支隊主力31日夕刻アンボン市内突入し蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の守備隊は翌2月1日未明投降した。 呉一特と若林中隊郊外のラハ飛行場向かった飛行場正面での連合軍抵抗激しく、呉一特は集中射撃受けて身動きできない態となった。さらに、アンボン占領後同地設置予定海軍24特別根拠地隊首席参謀予定者だった家木幸之輔中佐迫撃砲弾受けて戦死した局面打開のため、若林中隊飛行場側面山地迂回して背後に出る作戦を取ることになった突入予定時刻3日未明、呉一特は若林中隊待たず突入敢行若林中隊予定より遅れて6時戦場到着した6時30分、飛行場守備隊降伏した同日アンボン郊外抵抗続けていたオーストラリア軍降伏した東方支隊損害戦死55名、戦傷135名、呉一特は戦死40名、重傷50名を出した戦果遺棄死体340捕虜2,182であった

※この「アンボンの戦い」の解説は、「蘭印作戦」の解説の一部です。
「アンボンの戦い」を含む「蘭印作戦」の記事については、「蘭印作戦」の概要を参照ください。

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