アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ
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アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ公(ロシア語: Фёдор Григо́рьевич Орло́в、1787年10月30日 モスクワ - 1862年5月21日(グレゴリオ暦))は、ロシア帝国の軍人。オルロフ家出身でフョードル・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵の庶子。
生涯
フョードル・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵の庶子として生まれ、ナポレオン戦争では1805年の戦役から1814年のパリの戦いまで参戦した[1]。1825年のデカブリストの乱で衛兵隊の騎兵連隊を率いて鎮圧にあたったことで伯爵に叙され、1828年から1829年までの露土戦争での功績により中将に昇進した[1]。露土戦争の講和条約である1829年のアドリアノープル条約ではロシア代表を務め、1833年にはコンスタンティノープル駐在ロシア大使に任命され、黒海艦隊の総指揮官を同時に務めた[1]。皇帝ニコライ1世に深く信頼されており、1837年の海外視察ではニコライ1世に同伴した[1]。クリミア戦争中の1854年にウィーンに派遣され、オーストリア帝国をロシア側に引き入れるよう命じられたが失敗、1856年のパリ条約ではロシア代表として署名した[1]。同年にクニャージ(公爵)に叙され、ロシア帝国国家評議会議員に任命された[1]。1857年には皇帝アレクサンドル2世が不在のときに農奴解放を検討する委員会の議長を務めたが、彼自身は農奴解放には全くの反対であった。1862年に死去した[1]。
1827年に1人息子ニコライ・アレクセーエヴィチ・オルロフをもうけた。
脚注
- ^ a b c d e f g Bain, Robert Nisbet (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 293.
アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ
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「オルロフ家」の記事における「アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ」の解説
アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフ公爵(1787年10月19日(ユリウス暦10月8日) - 1862年5月21日(ユリウス暦5月9日))は、オルロフ四兄弟の四男フョードル・オルロフの庶子としてモスクワに生まれた。長じて軍に進み1805年からパリ進軍に至るナポレオン戦争全期間に従軍している。 1825年、デカブリストの乱では、近衛騎兵連隊長として反乱を鎮圧し、この時の功績を認められ伯爵に叙せられる。1829年、露土戦争で中将に昇進する。この昇進は外交官としても出世の第一歩となった。1833年、アドリアノープル講和会議ではロシア側全権を務めた。1833年、駐トルコ公使としてコンスタンチノープルに赴任し、同時に黒海艦隊司令長官を兼務した。アレクセイ・フョードロヴィチは皇帝ニコライ1世の信任厚い人物のひとりで1837年の外国訪問に随行している。1844年、政治秘密警察として悪名高い皇帝官房第三部の第二代長官に任じられた。 1853年、クリミア戦争が勃発すると、1854年、オーストリアをロシア側に引き込むためにウィーンに派遣されたが、工作は不首尾に終わった。1856年、パリ講和会議でロシア全権として講和条約を締結する。同年公爵に昇爵し国家評議会議長及び大臣会議議長(首相)に任じられる。1857年、農奴問題秘密委員会議長となる。1862年5月21日(ユリウス暦5月9日)、サンクトペテルブルクで死去した。 先代: アレクサンドル・ベンケンドルフ 皇帝官房第三部長官 1856年 - 1866年 次代: ヴァーシリー・ドルゴルーコフ
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