アレクセイ・フォン・ラムペとは? わかりやすく解説

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アレクセイ・フォン・ラムペ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/21 23:38 UTC 版)

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ・フォン・ラムペロシア語: Алексей Александрович фон Лампе1885年 - 1967年5月28日)は、ロシア帝国軍人少将ロシア革命後、白軍に身を投じ、戦後、ロシア全軍連合議長となった。

経歴

軍歴

  • 1902年 - 第1幼年団(幼年学校)卒業
  • 1904年 - ニコライ騎兵学校卒業
  • 1904年~1905年 - 日露戦争に従軍
  • 1908年 - 近衛セミョーノフ連隊に勤務
  • 1913年 - ニコライ参謀本部アカデミーロシア語版英語版卒業
  • 1916年 - 第18軍団本部附属委任参謀将校
  • 1917年 - 第8軍補給総監代行

第一次世界大戦中、ゲオルギー武器、3枚の最高感状を授与された。

ロシア内戦

1918年、B.シュテインフォン大佐と共に、ハリコフで地下組織義勇センターを率い、義勇軍への将校の輸送に従事した。同年末に自身も義勇軍に到着し、義勇軍では、ピョートル・ヴラーンゲリ将軍の作戦課長を務めた。1920年、コンスタンチノープルコペンハーゲン等国外で、ヴラーンゲリ将軍の各種委任事項を遂行した。

ロシア全軍同盟

ロシア出国後、デンマークハンガリーで、1923年からはドイツロシア軍の軍事代表を努める。その後、ベルリンロシア全軍連合第2課長(ドイツ、オーストリア、ハンガリー、バルト諸国)を務める。雑誌「Белое дело」の編集長。在独ロシア全軍連合組織の解散後、ゲシュタポにより逮捕され、1945年1月、予備役少将としてロシア解放軍に編入される。

第二次世界大戦後、パリに移住し、ロシア全軍連合の副議長となった。1957年2月からアレクセイ・アルハンゲリスキー将軍の後を継ぎ、同連合議長となった。1967年5月28日、パリで死去。

参考文献

  • "Биографический справочник высших чинов Добровольческой армии и Вооруженных Сил Юга России. Материалы к истории Белого движения", Николай Рутыч, М., 2002
  • "Вокруг Сталина. Историко-биографический справочник", Торчинов В.А., Леонтюк А.М., Санкт-Петербург, 2000




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