ウラジーミル・アガペーエフとは? わかりやすく解説

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ウラジーミル・アガペーエフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/20 13:40 UTC 版)

で撮影(1900年頃)

ウラジーミル・アガペーエフロシア語: Владимир Петрович Агапеев1876年 - 1956年5月6日)は、ロシア帝国白軍の軍人、参謀本部中将。

経歴

軍歴

第1幼年団(幼年学校)、ニコライ騎兵学校(士官学校)、ニコライ参謀本部アカデミーロシア語版英語版(1901年)を卒業。士官学校卒業後、近衛軽騎兵陛下連隊に配属。日露戦争に従軍し、第3ザアムール旅団参謀長で終戦を迎えた。

  • 1907年~1909年:駐セルビア軍事エージェント(駐在武官)
  • 1909年:駐ベルギーオランダ駐在武官、大佐
  • 1914年:第10騎兵師団参謀長
  • 1915年:第2近衛驃騎兵パヴログラード連隊長。少将に昇進
  • 1916年:第6騎兵軍団参謀長
  • 1917年:第35軍団参謀長
  • 1917年~1918年2月:ユゼフ・ドヴブル=ムシニツキ将軍指揮下のポーランド軍団参謀長

白軍

1918年春、B.シュテインフォンとアレクセイ・フォン・ラムペが率いるハリコフの義勇軍地下センターに加わる。同年末、エカテリンブルクに移り、義勇軍本部に入った。

1919年1月、第2軍団参謀長に任命。4月、アントーン・デニーキンは、アガペーエフを参謀長として承認せず、エフィモフ将軍と交代した。6月3日、中将に昇進。8月、コンスタンチノープルの連合司令部附属南ロシア軍軍事代表に任命。

1920年3月末、代表を解任され、ルコムスキー中将と交代した。

その後

その後、ユーゴスラビアに亡命し、ロシア全軍連合第4課の活動に従事しつつ、測量軍事大学に勤務した。

1941年、65歳のアガペーエフは、ロシア警備軍団に兵卒として登録された。軍団が東部戦線に送られないことを確信し、1942年秋、オーストリアに移り、チリに移民した。

1950年、アルゼンチンに移り、1956年5月6日、ブエノスアイレスで死去した。

著書

  • 「1914年8月の第10騎兵師団の戦闘に関するケレル伯爵の報告」(軍事選集第6巻、ベオグラード、1925年)
  • 「ロマノフスキー将軍の暗殺」(ベーロエ・ジェロー第2巻、ベルリン、1927年)



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