その他オルロフ公爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:56 UTC 版)
アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフの一子、ニコライ・アレクセーエヴィチ・オルロフ公爵(1827年 - 1885年)は、ロシアの外交官、著述家。始め軍務に就き、クリミア戦争に従軍し重傷を負う。その後、外務省に入り1860年ブリュッセル、1870年パリ、1882年ベルリンに赴任し、公使を歴任する。出版人としては、自由主義的改革の最前線に立ち、1881年Russkaya Starinaに体罰w:Corporal punishment反対の論陣を張り、廃止に至らしめた。ニコライ・アレクセーエヴィチは、敵対する思想への寛容の精神を主張していた。 ミハイル・フョードロヴィチ・オルロフ(1788年 - 1842年)は、アレクセイ・フョードロヴィチ・オルロフの庶腹の兄に当たる。ナポレオン戦争に従軍し活躍したのち、1814年ロシアに帰国し少佐に任じられる。ミハイル・フョードロヴィチは、アレクサンドル・プーシキンと親交を持っていた。また、ナポレオン戦争に従軍した多くの青年将校同様、自由主義者となり、農奴解放と共和制を主張するようになる。1818年から、秘密結社に所属し、キシニョフにおける組織化を担当した。1825年デカブリストの乱が失敗した後、逮捕されたが、すぐに釈放された。その後モスクワで学究生活を送り、投融資に関する先駆的な論文を発表した。
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