アメリカ留学と中国国民党への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:37 UTC 版)
「朱経農」の記事における「アメリカ留学と中国国民党への参加」の解説
アメリカでは教育部米国留学生監督処書記に任ぜられ、その傍ら、ワシントン大学(どのワシントン大学かは不明)で学ぶ。1920年、官費を取得してコロンビア大学で研究生となり、学士・修士の学位を取得した。また、この頃にキリスト教に入信している。1921年(民国10年)、北京大学校長蔡元培の招聘に応じて帰国し、教育学を講義する。その後、北京女子高等師範学校での授業も兼任した。 1923年(民国12年)、王雲五の招聘に応じて上海の商務印書館に赴き、新学制の下での中学・小学教科書編纂に協力している。その傍ら、『教育雑誌』などの教育専門誌において記事執筆を担当した。1924年(民国13年)秋、瀘江大学国文系主任となり、やはり教育学を教えた。翌年、新たに創設された光華大学で教務長となり、さらに大夏大学夜学でも授業を引き受けている。1926年(民国15年)、『教育大辞書』の主編者となった。 この頃から朱経農は中国国民党の北伐に協力し始める。1927年(民国16年)、上海に国民党による市政府が成立すると、教育局局長として招聘された。翌年4月、国民政府大学院院長の蔡元培招聘され、大学院普通教育処処長に任ぜられる。同年秋に大学院が教育部に改組されても、引き続き改組後の普通教育司司長を務めた。1930年(民国19年)3月、常務次長に昇進したが、同年12月に教育部長蒋夢麟と共に辞任している。これらの地位に在った間、朱は多くの教育制度の制定に取り組んだ。
※この「アメリカ留学と中国国民党への参加」の解説は、「朱経農」の解説の一部です。
「アメリカ留学と中国国民党への参加」を含む「朱経農」の記事については、「朱経農」の概要を参照ください。
- アメリカ留学と中国国民党への参加のページへのリンク