アメリカ留学と北京大学からの招聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 00:20 UTC 版)
「馬寅初」の記事における「アメリカ留学と北京大学からの招聘」の解説
紹興県学堂を17歳の時に卒業し、上海の教会が経営する中西書院(東呉大学の前身)に進学した。1904年(光緒30年)に卒業すると、天津・北洋大学(天津大学の前身)で冶金学を学んだ。在学中にアメリカへ留学することになったが、当時の国内における冶金技術の低水準の低さから冶金学に将来性を見出せず、イェール大学では経済学専攻に転じている。1910年、修士号を取得し、さらにコロンビア大学大学院に進学して、経済学・哲学の両博士号を取得した。なお、卒業論文「ニューヨーク市の財政」は学術界から高く評価され、コロンビア大学の1年生向け教材として採用されている。 帰国後の1915年(民国4年)9月、北京大学校長蔡元培の招聘に応じ、馬寅初は同大学経済学教授となった。1917年(民国6年)、同大学経済研究所主任となる。この頃、馬はロシア革命への支持を公にし、李大釗らと交友した。翌年10月、大学評議員となり、1919年(民国8年)には教務長に選出されている。同年の五四運動では、学生に同情と支持を寄せ、当局に逮捕された学生の解放交渉にも取り組んだ。 1920年(民国9年)、馬寅初は上海方面へ活動の場を移し、東南大学商学院(上海財経大学の前身)の創設に関わった。翌年、北京に戻り、北京大学経済学会を組織して会長に選出されている。1923年(民国12年)、中国経済学社を創設して社長となり、雑誌『経済学専刊』を刊行した。
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