アセン兄弟の暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「アセン兄弟の暗殺」の解説
1189年に第3回十字軍が行われると、ブルガリアは東ローマと敵対する神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった。フリードリヒ1世が東ローマ領を通過した後、1190年の夏に東ローマ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォは東ローマ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まると東ローマ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍はトリャヴナでイサキオス2世が率いる東ローマ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、笏、衣装を手に入れた(トリャヴナの戦い)。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部とドブルジャ地方を統治した。 ブルガリアの軍事活動はバルカン山脈南部の東ローマ領に達し、1193年にブルガリアはスレデツを回復した。また、ブルガリアは北方のハンガリー王国との戦いでも勝利を収め、長らくハンガリーの支配下に置かれていたベオグラードとブラニチェヴォを奪還した。 しかし、中央集権的な政策を採るアセン1世の元で、東ローマからの独立運動中から見られた貴族の反抗がより顕著になり、1196年に宮廷内のクーデターによってアセン1世は暗殺される。陰謀の首謀者であるアセン1世の従兄弟イヴァンコ(英語版)はクーデターを教唆した東ローマに援助を求めるが、東ローマから派遣された軍隊は行軍中に反乱を起こしてブルガリアに入ることを拒んだ。プレスラフを統治していたペタルは支持者から軍隊を集めてイヴァンコを東ローマに追放し、皇帝に復位した。だが、ペタルも貴族の反抗を抑えることができず、1197年に暗殺される。 空位となった皇帝の座には、コンスタンティノープルから逃亡してブルガリアに帰国していたアセン兄弟の末弟カロヤンが就いた。
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