アジア・アフリカの植民地化の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:17 UTC 版)
「植民地主義」の記事における「アジア・アフリカの植民地化の開始」の解説
こうした中、ヨーロッパ諸国は新大陸に代わる植民地としてアジア・アフリカへの侵略を強めていった。すでにインドにおいてはヨーロッパ各国が商館を各地に建設していたが、1757年に起こったプラッシーの戦いが一つの転換点となった。この戦いで勝利したイギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得し、事実上この地域を支配下においた。そしてここを足掛かりに徐々に侵略を進め、19世紀半ばにはインド全土がイギリスの支配下に入った。インドはもちろん現地住民が多数派を占める植民地であり、本国からの植民も行われなかった。こうして入植型植民地に代わり、現地住民を支配して収奪し利益を上げる型の植民地支配が主流となっていった。一方でこの時期においてもオーストラリアやニュージーランド、カナダなどの入植型の植民地は引き続き進められており、これら入植型植民地においてはある程度の人口や体制が固まったのちは自治領としてある程度の自治権が与えられた。 ナポレオン戦争によってオランダ領ケープ植民地やフランス領モーリシャスなどいくつかの植民地がイギリスに割譲された。この時期にはイギリスのみならず、いくつかの国家がアジアへの侵略を開始した。なかでもオランダはジャワ島の支配を17世紀以降徐々に進めていき、広大なオランダ領東インドを建設していった。また、アフリカにおいてはフランスが1830年にアルジェリアを征服し、再び植民地帝国を築くようになっていった。
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