アクセス問題と経営悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:42 UTC 版)
「横浜ドリームランド」の記事における「アクセス問題と経営悪化」の解説
詳細は「ドリーム開発ドリームランド線」を参照 開業から2年後の1966年5月2日には、それまで路線バスまたはマイカーに限られていたドリームランドへのアクセスの目玉として、国鉄(当時)大船駅とを結ぶドリームランドモノレールが開通。路線バスでは15分であった大船-ドリームランド間の所要時間を、約半分の8分に短縮するという触れ込みであった。 しかし、ドリームランドモノレールは技術上の欠陥により、わずか1年半弱後の1967年9月24日に運行休止に追い込まれる。その代替として神奈川中央交通のバス便を平日70往復、休日300往復させる措置が取られたが、ドリームランドへのアクセスは再びバスかマイカーに限定されることになった。しかも開園当初はのどかな田園地帯であった戸塚周辺は、高度経済成長によって急激にベッドタウン化が進むとともに道路交通量も著しい増加をみせており、特にバス・マイカーともにたどり着くために通過しなければならない国道1号原宿交差点は、神奈川県内でもトップクラスの渋滞箇所に発展していた。このため、バスの場合では空いていれば大船駅から15分ないし20分程度で済む乗車時間も、場合によっては1時間以上要することがあった。また、東京都内や横浜市街からマイカーで来場するケースでも、週末などは鎌倉や湘南方面へドライブする車と競合になり、原宿交差点を先頭に横浜新道内まで5km以上も続く渋滞がしばしば発生した。いずれの場合においても、来場者はレジャーを楽しむ前に少なからぬ時間ロスと疲労を強いられることになった。このような交通アクセスの悪さは、開園当初から閉園に至るまでドリームランドの経営を圧迫する致命的な欠点となり、1970年(昭和45年)には早くも収支悪化によって敷地東側の部分売却(全敷地の約4分の1)を余儀なくされる。以後も段階的に敷地売却が行われ、売却された土地には、神奈川県住宅供給公社と横浜市住宅供給公社によって「ドリームハイツ」という名の高層団地が建設されている。 さらに、日本ドリーム観光本体の経営も1972年に発生した千日デパート火災の補償問題により急速に悪化していった。
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