アイオワの最初のアメリカ人開拓者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 17:14 UTC 版)
「アイオワ州の歴史」の記事における「アイオワの最初のアメリカ人開拓者」の解説
アイオワでの最初の公式アメリカ人開拓は1833年6月のブラック・ホーク買収の時に始まった。アイオワの初期開拓者は大半がオハイオ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、インディアナ州、ケンタッキー州およびバージニア州から移住してきた。新規入植者の大多数が家族で移動してきた。ほとんどの家族は生まれた州を離れてからアイオワに到着するまでに少なくとも一つの州に住んだことがあった。アイオワに到着するまでに3度4度と居所を変えた家族もいた。それと同時にあらゆる家族がここで定着したわけではなかった。多くの者は間もなくグレートプレーンズのダコタやその他の地域に移転していった。 開拓者たちは東部で良く知っていた環境とはアイオワの環境が異なることが分かった。アイオワの北東部と南東部は森林が茂っていた。そこの開拓者は住居、外構および柵のための資材があった。さらに木材は豊富な燃料としても使えた。アイオワ東部を過ぎれば、高い草の生える草原が拡がっていた。最東部や南東部および河川に沿った地域では樹木が豊富だったのに対し、他では限られていた。アイオワの南部では、河川に沿って石炭の露出層が見出された。 アイオワの東部や中央部の大半では、開拓者たちが丸太小屋を造るために豊富な材木を見付けられたが、燃料や柵にする代替材を見付ける必要があった。燃料には乾燥させた草原の干し草、トウモロコシの穂軸および乾燥させた動物の糞が用いられた。樹木の少ないアイオワの北西部に入った人々は、芝土の家を建てた。初期柴土家屋の住人がその新しい住まいについて、「柴土」は安いだけでなく、冬暖かく夏は涼しいと賛辞の言葉で書き残している。虫、匂い、あるいは絶えることのない埃、湿気および暗さについては誉め言葉も無かった。 開拓者たちは飽きることなく柵の代替材も実験し続けた。石の壁を作った住人がおれば、土壁を作った者もおり、また溝を掘った者もいた。最もうまくいった材料はオーセージ・オレンジの垣根であり、1870年代までに有刺鉄線の発明で農夫たちに満足行く柵の材料を供給できることになった。
※この「アイオワの最初のアメリカ人開拓者」の解説は、「アイオワ州の歴史」の解説の一部です。
「アイオワの最初のアメリカ人開拓者」を含む「アイオワ州の歴史」の記事については、「アイオワ州の歴史」の概要を参照ください。
- アイオワの最初のアメリカ人開拓者のページへのリンク