テキサス鉄道委員会
【英】: texas railroad commission
略語: TRC
1891 年に鉄道の管理を目的として設立された組織であるが、その後、テキサス州内の産油割当てあるいは生産制限規則を策定し、実施するようになって著名になった行政機関である。1920 年代の後半、イースト・テキサス大油田の発見、生産技術の進歩などにより原油の乱掘がひどくなり、石油価格が暴落した。このため、国内石油資源の将来に不安の影を投げかけ、石油の節約、資源の保存(コンサーベーション:conservation)が叫ばれ始めた。こうした動きを背景に既に 1919 年より州内の石油産業の監督に当たることになっていたテキサス鉄道委員会は、本格的な産油規制に乗り出した。鉄道委員会が石油業の監督に当たったのは、石油の州際取引は主に鉄道によって行われていたためである。委員会の最も重要な仕事は、月々の許容産油量(allowable)を決めることであった。その際、基準となる市場の需要量などの数字は、内務省鉱山局から送られてくる。鉱山局は全国的な立場からテキサス鉄道委員会のような産油諸州の生産規制委員会(オクラホマ州では企業委員会が規制にあたっていた)にこうした資料を送って、いわば「間接統制」の役割を果たしていた。委員会には大小の会社の代表たちが、翌月の自社の原油生産希望量を提出し、委員会は坑井別に許容生産日数と 1 日あたり何バーレルという生産量を決定する。委員会が生産規制(生産制限)を行う公の理由は「資源の保存」にあったが、実際には生産増大によって暴落した価格の回復と安定が最大の目的であったことは、その後のメジャーズや OPEC の生産制限と軌を一にしている。テキサス鉄道委員会は、許容産油量の決定以外にも、油井の間隔(ウェル・スペーシング:well spacing)や天然ガスの消費抑制にも権限をもっていた。委員会はまた、油田の開発にあたって、「ユニタイゼーション(unitization)」を半ば強制的に行ってきた。テキサス鉄道委員会などによる生産規制は、第二次世界大戦中に国産石油の増産の必要から実質的に中止されたことがあったが、戦後再開され、大統領令による石油輸入の数量規制と相まって米国の石油需給調整の一翼を担ってきた。しかし次第に余剰生産能力がなくなり、1972 年に許容産油量を生産能力に対し 100 %としたあとは、実質的に生産規制の役割はなくなってきた。 |

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