その後の再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 18:00 UTC 版)
室は仙台藩主伊達政宗の四女であり、仙台藩にお家騒動(伊達騒動)が起きた際は、高国も仙台藩および伊達氏の存続に尽力している。この縁により、後年の1680年に京極高規らが赦免となったのち、伊達政宗の孫でもある高規らは、再取り立てまでの十年余りを仙台藩の世話になり仙台藩飛び地領にて暮らしていた。同じく、五男の高林は寺島姓を名乗り伊予国宇和島藩の伊達家に預けられ、赦免ののちは同家に取り立てられている。さらにのち、高林は兄の高規の養子という形で京極姓に復帰し、宝永2年(1705年)に幕臣となっていた兄の高規が隠居し、同じく兄の高甫が跡を継いだ際、高甫から分知を受ける形で旗本となった。そもそも兄弟の預けられた先はそれぞれ、 高規 - 伊勢国津藩藤堂家に預けられた。赦免後、仙台藩伊達氏の関東にあった飛び地領で暮らす。 高甫 - 祖母の系統である因幡鳥取藩池田家。 高林 - 側室筋ではあるが、京極高国と縁がないわけではない宇和島伊達家。 であり、親族が責任を取った形ではあるが、優し目の措置である。 弟の京極高勝も兄に連座する形で1666年に逼塞処分とされたが、翌年には許され蔵米五千俵を賜り、寄合に列した。高勝は兄の高治の子の国晴を養嗣子としたが、病により跡を継げなかったため、国晴の子の京極高金を嗣孫とし1683年に相続させた。この高金の妻は伊予国吉田藩主の伊達宗純の養女(宗純の弟の伊達宗職の娘。)であり、ここでもなお伊達氏との縁が続いていた。この京極仁十郎家は高金の代に蔵米を改め三河国内に5千石とされるも、高金の次代の高平で無嗣断絶となった。
※この「その後の再興」の解説は、「京極高国」の解説の一部です。
「その後の再興」を含む「京極高国」の記事については、「京極高国」の概要を参照ください。
- その後の再興のページへのリンク