その後の公的活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/03 21:58 UTC 版)
「エリアス・ブーディノット」の記事における「その後の公的活動」の解説
政治的活動の他に、ブーディノットはその人生で市民活動、宗教活動および教育分野で多くの役割を担った。プリンストン大学との付き合いは親密だった。独立戦争の頃、プリンストン大学はニュージャージー大学と呼ばれており、ブーディノットは1772年から1821年までの半世紀近く、大学の理事を務めた。1783年にブーディノットが議長を務めていた連合会議がフィラデルフィアを離れる必要が生じた時、ブーディノットは会議をプリンストンに移し、大学のナッソーホールで開催した。 ブーディノットは敬虔なエピスコパル教会員であり、伝道所と伝道を支援した。トマス・ペインの「理性の時代」に反応して、「啓示の時代」を書いた。そのために、アメリカ聖書協会の設立者の一人となり、1816年以降その会長を務めた。ブーディノットは黒人とインディアンの権利について擁護する立場を表明し、コネチカット州のインディアンのための公立小学校に入る生徒を資金援助した。援助された中の一人、ガレジナ・ワティーというチェロキー族少年は学校に通う間ブーディノットの家に起居した。2人は共感することが多かったので、ガレジナはブーディノットの名前を貰うことを求め許可された。このチェロキー族のエリアス・ブーディノットは後に、チェロキー族が涙の道で強制移住させられるお膳立てをすることになった。
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