さらなる航海探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 07:50 UTC 版)
「北アメリカの探検」の記事における「さらなる航海探索」の解説
1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが南アメリカを探検するためポルトガルから派遣された。 彼はブラジルの発見者だと考えられている。 フェルナンド2世 (アラゴン王)は出来て間もないイスパニョーラの植民地からフアン・ポンセ・デ・レオンを派遣し、北西に未発見の土地の噂があることを確認した。1513年4月2日、ポンセ・デ・レオンは花冠にちなんでフロリダと自ら名付けた北東部海岸に上陸した。正確な位置は議論されているが、歴史家はセントオーガスティン、ポンセ・デ・レオン・インレット、メルボルン・ビーチの可能性を提示している。 彼は強力なメキシコ湾流に遭遇し、フロリダのメキシコ湾岸(英語版)南西部に着陸するためのフロリダキーズを抜ける経路を発見した。 繰り返すが、正確な場所については異論がある。1493年にコロンブスがプエルトリコおよびヴァージン諸島を訪れたのは真実であるが、ポンセ・デ・レオンは現在のアメリカ合衆国本土に到着した最初のヨーロッパ人として知られることとなった。 1513年9月25日、スペインのコンキスタドールであるバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、パナマ地峡を横断して太平洋を目撃した最初のヨーロッパ人となった。後のラス・カリフォルニアスの植民地化に影響を与えるべく、彼は統治権についてそれと接している全領域を主張した。 1519-1521年頃、ポルトガルの探検家ジョアン・アルヴァレス・ファグンデスがニューファンドランド、ラブラドール、ノヴァスコシアの海岸を探検し、任務として植民地を築いた。 1524年、イタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノがフランソワ1世 (フランス王)のために出航し、北欧から北アメリカの大西洋岸を探検した最初のヨーロッパ人として知られている。ケープ・フィアー川の三角州付近に到着すると、彼は現在のサウスカロライナ州とノースカロライナ州の海岸線を探索し、パムリコ湾に入るも、チェサピーク湾への入り口を無視してしまった。ニューヨーク港が湖であると信じて、彼はナラガンセット湾とニューファンドランドを探検しながらロングアイランドを渡って航海した。 1524-1525年に、カルロス1世 (スペイン王)の代理としてポルトガルの探検家エステバン・ゴメスがメイン州の海岸に沿って南を航海しつつ、現在のノヴァスコシアを探検した。ゴメスはニューヨーク港に入ってハドソン川(彼はそれを「サンアントニオ川」と命名した)を確認した。彼の探検のおかげで、1529年のディオゴ・リベイロ(英語版)の世界地図は、北アメリカの東海岸の輪郭をほぼ完璧に描いている。 1534年、ジャック・カルティエはセントローレンス湾のガスペ半島に十字架を建てて、フランソワ1世 (当時のフランス国王の名前)という名の土地を主張した。1535年、カルティエはセントローレンス川を探検し、またこの地域のフランス領有を主張した。 ヘンリー・ハドソンは、シベリアを巡って東アジアに到達しようとして2回失敗した後、1609年にオランダ東インド会社の下で西へと出航した。彼もケープコッド、チェサピーク湾、デラウェア湾を通って、こちらは1609年9月11日にハドソン川を航海した。これは実際には五大湖だったものを経由する伝説的な太平洋への接続路を探したものであった。ハドソンの4回目および最後の航海で、彼はハドソン海峡、ハドソン湾、ジェームズ湾を発見し、地図を作って探検した。 この他の主な海上探検家には、艦長ジェームズ・クック、ジョージ・バンクーバー、チャールズ・ウィルクスがいた。
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