おもな活動について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 04:23 UTC 版)
「讃岐うどんで遊ぶ人」を自称している(本人は「俺は讃岐うどん(店)で遊ぶ人や」と「評論家」扱いされる事を嫌い、明確に否定している[要出典])。吉本興業所属(マネジメント契約)。社長退陣(=株式会社ホットカプセル退社)後は同社の顧問を1年間務めた。 讃岐うどんに関する『恐るべきさぬきうどん』シリーズの著者であり、1989年よりうどん店探訪記「ゲリラうどん通ごっこ」(略称「ゲリ通」)の連載をはじめる。高松市の「中北うどん」を訪れた時の感動から「針の穴場」を見つけることに時間を費やすようになり、今では全国的に有名になった「山越」「なかむら」などのディープなうどん店を次々と誌面で紹介する[要出典]。 愛称は「団長」。この時代にタウン誌における編集の基本と呼ばれていた投稿読者と編集者の言葉のやり取りの方法論である2WAYコミュニケーションの理論をさらに発展させ、投稿読者・編集者の他に投稿していない読者(潜在的読者)を巻き込んだ3WAYコミュニケーションの理論を確立させた。これは現在に至るまで田尾のマスコミ論の基礎となった[要出典]。 1980年代、編集長を務めていたタウン情報誌の一コーナー「笑いの文化人講座」が注目を集め、嘉門達夫の替え歌シリーズにも投稿作品がいくつか使われた(マハリクマハリタ、ヤンバルクイナ等)[要出典]。また、同誌主催のイベントでは、企画のみならず、司会進行を自ら務めた。連載「笑いの文化人講座」は、タウン情報誌発刊から退社まで一貫して執筆している。 同コーナーから派生した西日本放送のラジオ番組「そんなわけ、ねーだろ!」は、若年層聴取率で「オールナイトニッポン」等、全国ネットで放送されていた人気番組を押さえて1位になり、伝説の番組と呼ばれている。また、当時発行されていた雑誌「ラジオパラダイス」(三才ブックス)で行われていた「DJ・パーソナリティー人気投票」でも、田尾自身が上位にランクインした事もある[要出典]。 1999年から2009年3月まで、瀬戸内海放送の「KSBスーパーJチャンネル」に週一回、金曜日のコメンテーターとして出演。
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