あわただしい日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 02:53 UTC 版)
翌1931年(昭和6年)には市川右太衛門プロダクションに招かれ、市川右太衛門主演の映画を数本撮り、その翌年の1932年(昭和7年)には東亜キネマの後身・東活映画社に移籍し、雲井竜之介主演の映画を数本撮ったところで東活が解散になり、同社の後継会社「日本映画」が東京の調布に建設した「日本映画多摩川撮影所」(現在の角川大映撮影所)に1933年(昭和8年)には移って、同社はたった3本しか製作しないうちに倒産したのだがそのうちのレアな1本を撮り、すぐに退社して朝日映画連盟に移籍して、月形龍之介主演の映画を2本撮り、同年中にまた市川右太衛門プロダクションに戻って、1934年(昭和9年)には右太衛門映画を4本撮って、さらに日活太秦にもどって、沢村国太郎主演ものを撮る。そんなあわただしい4年間を送っているうちに、完全にトーキーの波に乗り遅れてしまうのだった。 明けて1935年(昭和10年)、太秦発声映画でトーキーの浪曲映画『紺屋高尾』に挑戦するが失敗、1936年(昭和11年)までに5本のトーキーを監督するが、奈良に舞い戻り、あやめ池にある全勝キネマで時代遅れの無声映画の剣戟を撮ることにした。翌1937年(昭和12年)、大日本天然色映画で、反動的なまでに先進的なカラー映画に挑戦、月形龍之介主演、行友李風原作の定番映画『月形半平太』を撮るが、同作の公開された半年後の7月7日に勃発した盧溝橋事件に端を発する支那事変に、報道班員として従軍、12月に始まった日本軍の南京攻略戦にカメラを担いで参加したまま、その後の消息は途絶えた。37歳の誕生日を迎えるころであった。 しかし1959年、松崎啓次によって旗揚げされた松崎プロダクション製作のテレビドラマに監督として志波の名前がクレジットされた。しかしそれが志波本人かどうかは、当時の関係者へ確認されないままになっており、定かではない。
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