『Radio City』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:14 UTC 版)
「ビッグ・スター」の記事における「『Radio City』」の解説
『#1 Record』の販売が振るわないという不満がバンド内不和の一因となった。 メンバー間で実際の揉め事(殴り合いの喧嘩や互いの楽器破壊など):114-118が起こり、ベルは1972年11月にこのバンドを辞めた。2枚目のアルバムに向けた楽曲制作が続行されるとベルは一旦戻ってきたが、新曲のマスターテープがなぜか紛失するなど不穏な事態が起こり、結局ベルは再びバンドを辞め、年末までに4人組のビッグ・スターは解散となった:114-118。 数か月後、チルトン、スティーヴンス、ハメルはビッグ・スターの再編成を決定し、この3人がセカンドアルバムの制作を再開した:126-130。タイトルの『Radio City』について、ハメルは次のように語っている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これは恐らくかなりダサいけど、その当時"都市(city)"という名詞の前に単語を置いて強調するのが、ちょうど巷で流行っている言い方でした。誰かが店に行こうと提案して、自分が昔そこで買い物して損したような場合に「いや駄目だよ、その場所は"ぼったくり都市(rip off city)"だよ」と言ったりしたんだ。『Radio City』と名付けたのは、ある種の希望的憶測です。というか、私達はこの収録曲がラジオで沢山流れて、そのことを"ラジオ都市(Radio City)"となってくれるのを望んでいました。もちろん、そうはならなかったのですが...。 スティーヴンスは「自分にとって『Radio City』は素晴らしいレコードでした。スリーピースであることは、ドラム演奏する私にとって本当に物事が開けました。スリーピースのバンドではドラムが異なる役割を果たすので、それが実に楽しかった。 [中略]『Radio City』は本当に自発的なもので、演奏は生演奏にかなり近いものでした」:126-130と回想している。 名義記載されていないが、ベルは「O My Soul」「Back of a Car」などアルバム楽曲の幾つかの作詞に携わっていた:126-130。このアルバムがリリースされる少し前に、ハメルはもう先が続かないと判断してこのバンドを辞め、大学最後の年は勉学に専念する普通の学生生活をおくることを選択した:138。彼に代わってジョン・ライトマンが、同バンド解散までの短い期間在籍していた。 『Radio City』は1974年2月にリリースされ、1作目と同様に素晴らしいとの書評を受けた。ローリングストーン誌をはじめ、ビルボード誌、Phonograph Record誌、キャッシュボックス誌などが賛辞を送った:140。しかし『#1 Record』が貧弱なマーケティングの犠牲になったように『Radio City』も同じ道をたどった。コロムビアは当時スタックスの版権楽曲を完全に管理しており、意見の相違が起こるとそれを扱うのを拒んだ。販売代理業者無しとなった『Radio City』の売上は、1作目よりはだいぶ大きかったものの、僅か2万枚程度だった:140。
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