『プリンセス・シシー』
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「ロミー・シュナイダー」の記事における「『プリンセス・シシー』」の解説
1953年、14歳で寄宿学校を卒業。ほどなく母マグダ・シュナイダーの主演映画『再び白いライラックが咲いたら』に出演する話がもち上がり、カメラテストに合格、マグダの娘役でドイツ映画界にデビュー。このデビュー作のみ、ロミー・アルバッハ=シュナイダーの名を使っている。(以下、「ドイツ」は当時の西ドイツ、「ベルリン」は西ベルリンのこと) 順調に役がつき、3作目の『女王さまはお若い』で主役のヴィクトリア女王役に抜擢される。翌1954年、同じエルンスト・マリシュカ監督でオーストリア皇后エリーザベトを演じたオーストリア映画『プリンセス・シシー』が大ヒット。全ヨーロッパで2500万人を動員し、ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。しかし、固定化された(ロミー曰く)「お粥みたいにくっついて離れない」“ロミー・シュナイダー=シシー”のイメージは生涯にわたってロミーを苦しめることになる。 これ以降、ロミーのドイツ、オーストリアでの出演作の役は大衆向け娯楽作の甘い無害な歴史ロマンスのヒロインや清純な乙女といったものばかりになり、女優としての成長を望むロミーはしだいに苛立ちを感じるようになる。しかしステージママ化した母マグダと継父の実業家ハンス・ヘルベルト・ブラッツハイム (Hans Herbert Blatzheim) (莫大なロミーのギャラを自身の事業に投資していたが後に破産)は1956年『若き皇后シシー』、1957年『ある皇后の運命の歳月』とロミーをシシーの続編に出演させた。後に「『シシー・Ⅱ』の出演が決まったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった」とまでロミーは語っているが、嫌々演じたというのに、この2作も大ヒットしてしまう。 母と継父は『シシー・Ⅳ』への出演もロミーに強要しようとしたが、20歳のロミーは目の前にギャラとして100万マルク(現在の6億円くらい)を積まれても首を縦には振らなかった。 「私はシシーなんかじゃない。分かっていたのは私だけ。役として演じはしたけど、私は夢のようなお姫さまとは似ても似つかない人間だった」
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