「電通」誕生とは? わかりやすく解説

「電通」誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:20 UTC 版)

通信社の歴史」の記事における「「電通」誕生」の解説

1901年明治34年7月1日光永星郎が「電報通信社」を創業した光永は、日清戦争の際に従軍記者として中国渡った経験を持つ。このとき、通信手段不備による記事掲載の遅れなどの理由から通信社重要性痛感した光永は、自ら通信社興すことを考えた。だが通信社設立には莫大な資金要することから、光永営利見込まれる事業として広告業目を付けた。即ち、広告代理店日本広告株式会社」を設立し然るのちに通信社広告代理店併設するという形をとったのである日本広告電報通信社は、新聞社から受領する通信料と新聞社支払広告料相殺する方式地盤築いた新聞社にとってこの手法は、広告枠電報通信社開放しえすればニュース享受できるため都合良く後発通信社であった電報通信社シェア拡大する上で大い役立った。しかし同時に、これは通信社新聞社生殺与奪の権握ること他ならないとの批判受けた1906年明治39年12月27日光永は「日本電報通信社」を興し、「電報通信社」を買収資本金20万円であった。翌1907年明治40年4月京城支局設置したまた、6月21日にUPが設立されると、翌月には早くもUPと通信協定を結び、アメリカ系国際ニュース初め日本の新聞導入8月1日日本広告合併した現在の電通」である。 電通急成長ぶりは、1908年明治41年)に開催され創立7周年記念式典の際に、逓信省通信局長の小林謙二郎が述べた祝辞にも現れている。祝辞によると、当時日本における予約電報毎日8000字、予約電話毎日50通話で、共に3分の1電通よるものであったという。 日本の有力通信社として台頭した電通は、先行する帝通と激しく争った。なお、電通他社比して政治的立場鮮明な記事多くはなかったが、立憲民政党系の帝通と競合したこと、立憲政友会政友会)系の新聞社多く契約していたことなどにより、電通政友会系と目されることが多かった

※この「「電通」誕生」の解説は、「通信社の歴史」の解説の一部です。
「「電通」誕生」を含む「通信社の歴史」の記事については、「通信社の歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「電通」誕生」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「電通」誕生」の関連用語

「電通」誕生のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「電通」誕生のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの通信社の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS