「電通」誕生
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1901年(明治34年)7月1日、光永星郎が「電報通信社」を創業した。 光永は、日清戦争の際に従軍記者として中国に渡った経験を持つ。このとき、通信手段の不備による記事掲載の遅れなどの理由から通信社の重要性を痛感した光永は、自ら通信社を興すことを考えた。だが通信社設立には莫大な資金を要することから、光永は営利の見込まれる事業として広告業に目を付けた。即ち、広告代理店「日本広告株式会社」を設立し、然るのちに通信社を広告代理店に併設するという形をとったのである。日本広告と電報通信社は、新聞社から受領する通信料と新聞社に支払う広告料を相殺する方式で地盤を築いた。新聞社にとってこの手法は、広告枠を電報通信社に開放しさえすればニュースを享受できるため都合が良く、後発の通信社であった電報通信社がシェアを拡大する上で大いに役立った。しかし同時に、これは通信社が新聞社の生殺与奪の権を握ることに他ならないとの批判も受けた。 1906年(明治39年)12月27日、光永は「日本電報通信社」を興し、「電報通信社」を買収。資本金は20万円であった。翌1907年(明治40年)4月、京城に支局を設置した。また、6月21日にUPが設立されると、翌月には早くもUPと通信協定を結び、アメリカ系の国際ニュースを初めて日本の新聞に導入。8月1日、日本広告と合併した。現在の「電通」である。 電通の急成長ぶりは、1908年(明治41年)に開催された創立7周年記念式典の際に、逓信省通信局長の小林謙二郎が述べた祝辞にも現れている。祝辞によると、当時の日本における予約電報は毎日8000字、予約電話は毎日50通話で、共に3分の1が電通によるものであったという。 日本の有力通信社として台頭した電通は、先行する帝通と激しく争った。なお、電通は他社に比して政治的立場の鮮明な記事は多くはなかったが、立憲民政党系の帝通と競合したこと、立憲政友会(政友会)系の新聞社と多く契約していたことなどにより、電通も政友会系と目されることが多かった。
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