「長野銀座」の衰退と再開発とは? わかりやすく解説

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「長野銀座」の衰退と再開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:18 UTC 版)

長野中央通り」の記事における「「長野銀座」の衰退と再開発」の解説

1998年長野オリンピック開催控え中央通りでも街の顔として改修工事が行われた。電線地中化歩道アーケード撤去により開放的な姿となり、大門交差点善光寺交差点間は車道部分まで石畳化するなど、門前町景観づくりが進められた。また、阿弥陀如来四十八願の第18願(王本願)に因んで善光寺本堂から18丁(≒1.8km)の位置長野駅開設したことに因み中央通り末広通り沿いの1丁(≒109m)ごとに、三丁十七丁の「丁石」碑が歩道両側)に設置された。 これらの改修1996年平成8年)に完了し面目一新し世界各国からの人々出迎えた中央通り沿いには長野オリンピック表彰式会場セントラルスクゥエア」が開設され連日1万人以上の観光客かつてない賑わい見せた。しかし、五輪閉幕後は、折から不景気影響一気に受けることになる。 もともと、沿道商業中心長野駅側に次第移り観光客善光寺周辺集まって中央通り中央部である「長野銀座」は徐々に空洞化進んでいた。先に挙げた大型店のうち、ながの丸善百貨店早々に1966年昭和41年長野駅前へ移転の上ながの東急百貨店となって大きく業績伸ばしヴィナス1980年昭和55年)に閉店長崎屋長野店は1998年平成10年)に郊外高田新築移転していた。さらに五輪後2000年平成12年)には長野そごう倒産ダイエー長野店は郊外若里移転し、かつての商業中心であった新田町交差点近辺には銀行支店だけが立ち並ぶような状態となった。 こうした中で、長崎屋長野店跡は閉店した同年中に若者向けファッションビルショッピングプラザ again」として再発進。ダイエー長野店跡は2003年平成15年)に再開発ビルもんぜんぷら座」となり、長野そごう跡地には2006年平成18年)に信越放送SBC本社ビルTOiGO」が建てられ徐々に賑わい取り戻しつつある。

※この「「長野銀座」の衰退と再開発」の解説は、「長野中央通り」の解説の一部です。
「「長野銀座」の衰退と再開発」を含む「長野中央通り」の記事については、「長野中央通り」の概要を参照ください。

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