「長篠敗戦」を「敬公(徳川義直)が」「苦窮を忘れざる為に」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 03:44 UTC 版)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「「長篠敗戦」を「敬公(徳川義直)が」「苦窮を忘れざる為に」」の解説
1910年(明治43年)4月に尾張徳川家は、名古屋市内で、同家の初代・徳川義直(源敬公)に関する什宝の展覧会を開催した。 当時の雑誌『国華』に掲載されたこの展覧会の紹介記事の中に、 (…)家康公の肖像が3幅程ある、其の中に長篠敗戦の像を敬公が特に当時苦窮の状を忘れざる為に画かしめたものは普通の肖像と異って甚だ面白い。(…) — 雑誌『国華』1910年(明治43年)5月号(第240号)雑録 との記述があり、尾張徳川家によって、展覧会に出品された本図に、長篠敗戦の像を、敬公が、当時苦窮の状を忘れざる為に描かせたとする説明が付与されていた。 1575年の長篠の戦いでは織田信長・徳川家康連合軍が武田勢を破っているが、原は「まだ歴史認識が広く一般化していない時代の所産」として「長篠敗戦」の図との説明が通用していたのではないか、としている。 1931年(昭和6年)12月に尾張徳川家は徳川美術館開設のため財団法人尾張徳川黎明会を設立して同家の什宝を同財団に寄付したが、これに先立って作成された同財団の「美術館所属什宝」の目録においても、本図は『家康公長篠戦役小具足着用ノ像』と記され、長篠合戦の画像とされていた。
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