「縄文時代」の定着まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:18 UTC 版)
日本に欧米より考古学が齎されたのは明治時代のことであり、当初は1877年(明治10年)に来日したエドワード・S・モースをはじめとするお雇い外国人によって研究が開始された。この時点ではまだ縄文時代という時代区分は用いられておらず、石器時代という枠組みのもと、そのころの日本列島に住んでいたのはアイヌであったという説(ハインリヒ・フォン・シーボルト)、そのアイヌの前に住んでいた人々がいたというプレ・アイヌ説(モース)、北海道においてはアイヌの前にコロポックルが居住していたという説(ジョン・ミルン)などが唱えられた。1880年代末ごろになると、ヨーロッパ留学からの帰国者らがお雇い外国人と入れ替わり、坪井正五郎らによるコロポックル論争に発展し、石器時代人=アイヌ説も小金井良精を中心に引き継がれた。その後、長谷部言人による形質人類学的研究や清野謙次による統計学的研究などを受け、1920年代中ごろまでには、旧石器人は現代日本人の直接の先祖であるとの見解が主流となった。しかし、1930年代には長谷部や清野も記紀に基づいた建国神話について時局迎合的となるなど、こういった見解はあまり顧みられなかった。 戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生文化と縄文文化の二つの文化の存在を示していたが、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。
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