「米国案」としての受け取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
「日米交渉」の記事における「「米国案」としての受け取り」の解説
4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。しかし、ここで重大な誤解が生じ、近衛首相は諒解案を「米国案」として受けとった。『近衛手記』に、その夜、緊急に大本営政府連絡懇談会を招集して「米国の提案を議題にして協議した」との記述があるように、近衛は明らかに諒解案の「交渉試案」という意味を履き違えたとみられる 。 諒解案には東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」というが、「主義上賛成」の電報を打とうという動きは抑えられ、返事は松岡外相の帰国を待ってからとなった。なお、『近衛手記』によれば、「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径である」などの意見から「大体受諾すべしとの論に傾いた」が、その一方でドイツとの信義を強調する意見があったとのことである。 東條や武藤は、諒解案を泥沼化した支那事変解決の機会ととらえて乗り気となり、陸軍省としては「ともかく交渉開始に同意」と決定した。また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」で意見が一致し、最終的にはこの線に沿って陸海軍間の合意がなった。 ただし、中国からの撤兵問題については、交渉に前向きな軍務局でさえ撤兵に反対の立場であり、日本人の経済活動保護の観点から駐兵は必要と考えていたことは、交渉の前途に影を落とすことになった。中国における日本の占領地経営の実体は、「進出した日本の大企業、中小資本を問わず、小売商人、大小の国策企業の職員の生活にいたるまで、日本の経済体制は占領地支配と密着しており、しかもそのすべては、日本軍駐屯という厳然たる事実によってはじめて可能な状態にあった」のであり、このことが撤兵問題を困難なものにしたのであった。
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