「篤志解剖」第1号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:27 UTC 版)
小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「篤志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者、軍学者の宇都宮三郎であると記述している。宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。若いころから武芸と兵法を修め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である。宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた。 1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた。幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は「篤志解剖願」を書き上げて東京府に提出した。この願に対して東京府は「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた。しかし、宇都宮の病は回復したため解剖も行われなかった。宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた。同年には結婚もしている。小川は、宇都宮(による篤志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している。結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された。そのため「篤志解剖」第1号は美幾となった。 なお、美幾の「篤志解剖」第1号について、末永恵子(福島県立医科大学講師)がその著書『死体は見世物か 「人体の不思議展」をめぐって』の中で触れている。末永は美幾について「医学校の附属病院に入院していた重症の患者で『貧病人』であった」と当時の文書に記されていたことを挙げて「入院したときはすでに重症で命の危機に瀕していた彼女の意思のほんとうのところは、今では知る由もない」と指摘した。
※この「「篤志解剖」第1号」の解説は、「美幾」の解説の一部です。
「「篤志解剖」第1号」を含む「美幾」の記事については、「美幾」の概要を参照ください。
- 「篤志解剖」第1号のページへのリンク