「奇跡の年」およびそれに続く数年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:00 UTC 版)
「アルベルト・アインシュタイン」の記事における「「奇跡の年」およびそれに続く数年」の解説
1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。 1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台(ツィットグロッゲ)の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。 1906年、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。 1907年、有名な式E=mc²を発表(1905年9月にm=L/V^2の形で既に発表している)。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。 アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在アインシュタイン・ハウスという名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介するアインシュタイン・ミュージアムが入っている。
※この「「奇跡の年」およびそれに続く数年」の解説は、「アルベルト・アインシュタイン」の解説の一部です。
「「奇跡の年」およびそれに続く数年」を含む「アルベルト・アインシュタイン」の記事については、「アルベルト・アインシュタイン」の概要を参照ください。
- 「奇跡の年」およびそれに続く数年のページへのリンク