「名前」と「事物の本性」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 09:33 UTC 版)
「クラテュロス (対話篇)」の記事における「「名前」と「事物の本性」」の解説
取り決め(約束)と同意以外に、「名前」の正しさ(規準)があるとは思えないと主張するヘルモゲネスに対し、ソクラテスはまず、言明(ロゴス、命題)には「真偽」の区別があり、その言明(ロゴス)の最小部分を構成している「名前」(オノマ、名詞)にもまた同様に、「真偽」の区別があることを指摘する。ヘルモゲネスも同意する。 続いてソクラテスは、ヘルモゲネスの考えが、プロタゴラスのような事物を各人の主観に完全に還元してしまう「相対主義」でもなく、エウテュデモスのような事物の区別を抹消してしまう「詭弁」でもないことを確認しつつ、そうであるならば、事物には(人間の主観から独立した)「それ自身の固定したあり方(本質)」があるのだと指摘する。ヘルモゲネスも同意する。 次にソクラテスは、事物を「切る」「焼く」場合に、人間側の「勝手な臆断(思いなし)」「勝手な手段(道具)」ではなく、その事物の「本性」に沿った「正しい考え」「正しい手段(道具)」でなされるべきであるのと同じように、事物を「名付ける」場合もまた、その事物の「本性」に沿った「正しい考え」「正しい手段(道具)」で行われるべきだと指摘する。ヘルモゲネスも同意する。 そしてソクラテスは、「杼(ひ)する(織る)」道具が「杼」(ひ)であり、「孔(あな)を開ける」道具が「錐」(きり)であるのと同様に、「名付ける」道具は「名前」であることを確認した上で、それら「道具」の「使われ方」を尋ね、「杼」が「入り混じっている縦糸と横糸を区分する」のに使われていると同じように、「名前」もまた「事物をその性状に従って区別する」のに使われていること、そして「名前」は「事物のあり方を区別する、教示的な道具」であることを指摘する。ヘルモゲネスも同意する。 続いてソクラテスは、「杼」を使う機織者は「技術を持った大工」が作った「杼」を使うなら上手に使いこなすし、「錐」を使う穿孔者も「技術を持った鍛冶屋」が作った「錐」を使うなら上手に使いこなすのと同様に、「名前」を使う教示者は、誰が作った「名前」を使うなら上手に使いこなすのか問うも、ヘルモゲネスは答えられない。ソクラテスは、「名前」を形成するのは「法習」(ノモス)、より直接的にはその「立法者」であり、「技術を持った立法者(としての名前製作者)」が作った「名前」であるならば、教示者はそれを上手に使いこなすであろうことを指摘する。ヘルモゲネスも同意する。 さらにソクラテスは、 「杼」「錐」がそうであるように、「製作者」が「道具」を作る際には、その基準(手本)となる「模範の形」があり、それを「用途」に合わせてうまく加工(カスタマイズ)できなくてはいけないこと その「道具」の出来映えを「監督・判定」することができるのは、(「琴」であれば「演奏者」、「船」であれば「舵取り」といったように)「道具」の「使用者」であること したがって、「道具」の「使用者」を監督者としながら「製作者」が「道具」を作るなら、「道具」は立派に作られること 「名前」の場合、その使用者とは「問答法」を心得た「問答家(対話術者)」であること したがって、「問答法」を心得た者を監督者としながら「立法者」が「名前」を作るなら、「名前」は立派に定められること などを指摘していき、ヘルモゲネスも同意する。 そこでソクラテスは、「名前」はクラテュロスが言うように「事物の本性」によって定まっているのであり、「名前」を定める(「名付ける」)ことも、「誰にでもできるつまらない仕事」ではなく、「「事物の本性」によって定まっている「名前」を「手本」として眺め、その形を「文字」や「綴り」の中に入れることができる者のみが可能」だということを指摘する。ヘルモゲネスも同意する。
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